連載 神への賛美 第9回 ヨハネの福音書と賛美(3)
向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持ち、国内外で賛美活動を展開している。
時は正午ごろ。もし日本の夏ならば、汗が滝のように噴き出すでしょう。中東では日差しは痛くすら感じられると言われます。水はいのち。この物語の場所、二千年前のサマリアでは、水は本当に生命線だったでしょう。
その女性は水瓶を持ったまま、井戸の傍で困惑していました。「決して渇かない水がある。飲んだらそれが自分の中から泉のように溢れるようになる」と目の前の男性が言った。だから「下さい」と答えたのに。
この人はユダヤ人。私はサマリア人。民族的に犬猿の仲。でも、なぜかこの人は信じられると思った。なのに「夫を呼んで来なさい」だなんて、いったい何を言い出すの?
「私には夫がいません」と、女性は答えました。ところが男性の返事はこうでした。「そのとおりです。あなたには夫が五人いたけど、今一緒にいる人は夫ではないからです。」女性は度肝を抜かれました! なぜこの人は私の誰にも見せられない姿を知っているの?
「なぜ私はこんなに運が悪いの? 今の人とはうまくいく? やっぱり違う?」もし相手が占い師ならば、そんなことを尋ねたでしょう。でも彼女はそうしませんでした。
「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネ4・19~20)。
彼女は礼拝のことを質問したのです。「私たちの礼拝とあなたがたの礼拝は違う。どちらが本当ですか?」と。渇きの根底を見抜かれた彼女は、この人になら尋ねられると、一緒にいる人とのことではなく、もっと根源的な問いを打ち出したのです。「礼拝とは、神とは何ですか?」と。こんな深い質問ができた彼女は、幸せな人だと思います。
「わたしを信じなさい。」結び合った二人の目と目。
「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。……まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」(同21~23節)。
何という答えでしょうか。この方、そう、イエス様の答えはこのようなものでした。「場所や様式を超えた、霊とまことの礼拝を、ひとりのお父様にささげる時が来るよ! あなたの前にわたしがいる、今がその時なんだよ!」
霊とまこと。英語では「in spirit and truth」のように訳されることが多いと思います。聖書が書かれたギリシア語ではエンが使われ、エンとinはほとんど同じ。「~の中に入って」の意です。すなわち、「霊とまことの中に入って」。「山とか、神殿とか、そういう形ある場所や方法ではない。神様の霊とまことの中で礼拝する、その時が来た」と。
「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです」(同23節)。
女性はどんなに驚き、そして心踊ったことでしょう! 罪人の極致のような自分を、天のお父様は招いておられる!
私たちも時々、同じような疑問を持ちます。「神様はひとりなのに、どうしてあの礼拝、あの賛美は異なるの? 真実は何?」 神は霊です。見えないけれど生きておられます。礼拝は様式の違いや場所などによらず、真実に霊にあるかどうかです。私たちが、ただおひとりのお父様の中に霊的に戻ること。それは大いなる回復と真実な解放なのです。
私たちには、賛美や礼拝の中に大きな神様を感じる祝福があります。光なる方、いのちなる方、愛なる方の霊の中に私もいる。イエス様がおっしゃった水は、神様の霊そのもの、聖霊様のことです。そのいのちの御霊を飲む。私の中に聖霊様が流れ込み、干からびた私の心に沁みわたる。主の中に自分がいるだけでなく、私の中にも主がおられる。霊にあってひとつ。その幸いな場所が真の礼拝。
「私のまこと」は酷いもの。でも、御霊はそのどうしようもない、誰にも見せらないところにこそ訪れてくださる。真理の御霊は、壊れた「私のまこと」に「主のまこと」で触れてくださる。その癒やし。そして聖霊は私たちを「主のまこと」へ導き続けてくださる。驚きの連続。礼拝は、新しい人生の告白の場所でもあります。
女は言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう」(同25節)。
イエスは答えられました。「あなたと話しているこのわたしがそれです」(同26節)。
彼女は自分の水瓶を置いて、人々のところに走って行きました。彼女からは、いのちの水が溢れていたでしょう。私たちもそのいのちで賛美します。その賛美は永遠です。