連載 伝わる言葉で伝える福音 第9回 イエス・キリストってどんな方?

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。

 

イエス・キリスト―これは、苗字と名前の組み合わせではない。「私はイエスを救い主(キリスト)とします」という信仰の告白である。
しかし、神様をまだご存じでない方にとって、この「救い主」という部分がわかりづらい。教理的に「全き神にして、全き人」とか「二性一人格」などと言われても、頭の周りに「?」が飛び交うだけである。
「イエス・キリストってどんな方? わかるように教えてよ!」 これが、神様をまだご存じでない方の率直な感想である。
一方、クリスチャンにとって、こんな描写はいかがだろうか?
誰かに誘われて何となく教会に足を踏み入れた人が、その家族的な雰囲気に癒やされ、優しそうな教会の方々の笑顔に触れ続ける。やがてその人は「自分もこの仲間に入ろうかな……」と思い始める。そして先輩クリスチャンが「イエス様」を大切に思っていることを知り、彼らの所作を受け入れ、自分も「イエス様」を受け入れようと決心する。すると本当に「イエス様」のことが大好きになっていく。この方と共に歩む日々が楽しくなっていく―。
おそらくこれが一般的な「信じるまでのプロセス」だろう(もちろん、そうではないパターンも数多あるだろうが……)。
もしこのような「信じるまでのプロセス」描写に心の中で頷いている読者がおられるなら、その感覚に自信をもってもらいたい。あなたは確かにイエス様を信じている。同時に「イエス・キリストってどんな方?」という問いに対して、あなたという存在を通して答えている。
あとはそのことに自分自身が気づき、そして「私にとってイエスがどんな存在か」を相手に伝わるように言語化するだけである。あなた自身の内から湧き上がってくるオリジナリティあふれた言葉で―。
そのキーワードは何か? 「好き」という感情である。これを現代的に言い換えるなら、「推し」を見出すことである。
近年、日本人の全世代に市民権を得た「推し」という言葉。これが、私たちクリスチャンがイエス・キリストに向けるまなざしを最も端的に言い表している。
「ファン」でも「アイドル」でもない。「ファン」は流行に左右される。「アイドル」は文字どおり「偶像」となり、あなた自身を失わせる。
しかし「推し」は違う。それは、周囲の意見に流されるのでなく、あなたが主体的に好きになる対象(推し)を発見することを意味するからである。そして「推し」と共に自分も変化していくことを体感できる。
ここまででもう十分わかるだろう。「イエス・キリストってどんな方?」と問われたとき、歴史的にどんな人物だったかとか、組織神学的にどう定義されるかが重要なのではない。あなた(クリスチャン)が「イエス・キリスト」と聞かされた時、内側から熱くなり、いかにこの方のことが好きか、そしてこの方と共に歩む日々が自分にとって大切か、個人的につながっていると思える感覚によって、自分の成長をも実感できるかを熱く語る(語れてしまう)ことが重要である。
「好き」という感情が、人々と私、そして客観的事実(イエス・キリストはどんな存在か)と主観的語り(私にとってイエス様はどんなお方か)をつなぐことになるのである。
私たちは伝道するとき、「正しいこと」を言わなければダメだと思い込んいる。だから自分は語るのにふさわしくない、説明や伝道は牧師先生、リーダーに任せたい、となるのだ。しかし違う。相手から「イエス・キリストってどんな方?」と尋ねられるとしたら、あなたの存在を通して透けて見えるイエスを相手は知りたいと願っているのだ。だから声を大にしてこう言おう。
「イエス様って、私の推しです!」
これが本当の「イエス・キリスト(イエス様は私の救い主! という告白)」なのだから。