特集 時を越えてきた名著 ニュークラシック・シリーズ

長きにわたり信仰を養ってきた名著を再編集し、装丁も新たに出版しているニュークラシック・シリーズ。本特集ではそのラインナップを紹介するとともに、これらの書籍が読み継がれてきた理由に迫ります。

 

『霊的スランプ―信仰の回復―』
自信喪失から立ち上がる力はどこから
日本フリーメソジスト教団・巡回教師、元大阪キリスト教短期大学・教授  石黒則年

 

このたび、当該書を、版組も新たにして、いのちのことば社から「ニュークラシック・シリーズ」の一冊として復刊するという企画が立てられました。ここに本書出版の背景と意義を、翻訳者の視点から手短かに紹介して、参考に供したいと思います。

 

本訳書「初版」の出版から今日まで
一九八〇年春にアメリカから帰国して、堺市で伝道・牧会の働きを再開していた折、当時、いのちのことば社出版部長であった高本康生氏より連絡をいただき、この書の原書D.M.Lloid-Jones, Spiritual Depression, Its Causes and Cure, (London: Pickering & Inglis, 1965.)の紹介と翻訳書出版の企画、さらには翻訳の依頼を受けました。それを快諾し、スタッフの斎藤睦子氏を窓口として種々の打ち合わせと作業の末に、一九八三年の出版に至りました。実のところ、この訳書は印刷文字が細かく、ページ数もかなりありましたので、頒布の状況を少し心配しながら見守っていました。
出版部の記録によれば、今日までに「第六刷」まで至り、さらにオンデマンドでの印刷も「十二回」ほどなされているとのことです。
この販売状況は「爆発的な出版部数」とは言えないかもしれませんが、ロイドジョンズの名声とともに、本書に取り扱われている「信仰者のスランプ状態の克服」という実際的な課題設定がキリスト教会内外のニーズを適切に射ていたと言えるでしょう。
また、そのような頒布状況は、本書に叙述されるような「霊的スランプ状態」「信仰生活上での喜びの喪失」が、隠された問題点であり、生涯にわたって生気のある信仰生活を営む上で必要な洞察が求められているという現況を反映しているように思われます。

 

著者ロイドジョンズと現代
本書の著者であるロイドジョンズ(一八九九~一九八一年)は、キリスト教界において優れた改革派的福音主義の神学者、説教者として知られていますが、その背後には、イギリスの宮廷侍医助手として奉職した経験から得られたと考えられる深い洞察が多数見うけられます。一九二七年からは南ウエールズの教会で奉仕し、さらに一九三九年から一九六八年までウエストミンスター教会で奉仕した牧会経験も、この書の背後にあります。換言すれば、本書はかの地でなされた二十数回の説教を収録した説教集でもあります。
では、本書の第一章と第二章、第十四章などから、限られた例証ですが、心に響いたいくつかの文章を紹介しましょう。

「幸福感を持たないクリスチャンはキリスト教信仰を推薦するには不向きである(まえがき)。……もし神との正しい関係が保たれ、正しい霊的状態にあるならば、それもまた必然的にその人の顔に現れるにちがいない」
「(信仰者を当惑させている)課題を詳細に分析していくに際して……まず第一に、この件に関する聖書的な教えを学ぶことである。……さらに進んで聖書中にある、このスランプ状態の著しい実例ないしは例証を研究し……神が彼らをどのように取り扱われたかを調べるのである」
「ためらうことなく何よりも第一に言及したいのは、気質についてである」
「最も偉大ですばらしいクリスチャンが霊的スランプの攻撃に最も屈しやすいのは、肉体的に弱った時である」
(以上、第一章より)

「パウロが主張する義とは、神との正しい関係のことである。神との関係が正しくないならば、究極的な幸福はなく、平安もなく、喜びも与えられない」
「憂うつ顔のクリスチャンの究極的な問題点は、自分の罪を十分に認識せず、それを心から悲しんだことがない点にある……聖書には独自の順序がある……あなたが霊的スランプから解放されたいと望んでいるのならば……もう一度、決定的に自分の過去に別れを告げることである。過去の罪がキリストにあって覆われ、消し去られてしまったことを認めるがよい」
(以上、第二章より)

「サタンはもっと狡猾な働きをしている。……どこにも間違いは見当たらない。……正しい方向に進んでいながら、ただ疲れを覚え、うんざりし始めている……間違いのない方向に進んでいるのだが……生気がなく、手足を引きずって歩いているような姿である」
(第十四章より)

 

喜びに満ちた信仰生活に、あと一歩
本書に収録されたテーマ説教が語られた当初の聴衆は、二十世紀のイギリスの人々でした。しかし、そこに指摘されている種々の「霊的スランプ」状況は、十中八九、現代の日本の状態にも当てはまります。信仰理解は正当に思われるが、その実態をはげしく問われ、自信を喪失して小さく縮こまってしまっているクリスチャンの姿は、主イエスが十字架で死なれた後の、弟子たち、信奉者たちの姿にも重なって見えます。そこから立ち上がる力は、どこから得られるのでしょうか。
見えているようで見えていない。信じているようで信じきれていない。正しい歩みをしていると思うのに、うまくいかない。それこそ、信仰生活において「スランプ」に陥っているクリスチャンの実像です。ロイドジョンズに言わせれば、それは「鮮明な理解がないために心が乱れ、幸福感を持てない、みじめな気持ちになっている」信仰者の姿です。そして、その解決は感情的興奮や心理学的なコントロールにあるのではない。霊的スランプに陥っている方々が、それを克服して、パウロと共に次のように言うことができる対処法を見出していただきたいと願っています。
「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリピ人への手紙四章一三節)

 

5月発売予定

『霊的スランプ 信仰の回復』
D・M・ロイドジョンズ 著 石黒則年 訳
四六判 512頁 定価3,520円(税込)