書評books 愛は共鳴なり 本当の寄り添いとは何なのか?

「罪人の友」主イエス・キリスト教会牧師 進藤龍也

 


『なぜ、こんな目にあわなければならないのか
がん病理学者が読む聖書「ヨブ記」』
樋野興夫 著
四六判・208頁 定価1,760円(税込)
フォレストブックス

 

この本を読んで、得たことを一言で表すなら「愛は共鳴なり」でした。娘が自死で亡くなった直後、私が一番つらかったこと、恐れていたことは、批判されるということでした。そして一緒に泣いてくれない、気持ちをわかってくれる人がいない! ということでした。しかし、唯一、妻だけが黙ってそばにいてくれました。言葉は要りませんでした。慰めや励ましは一切必要のない悲しみもあるのです。聖書に「彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。『私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。』こうして父はヨセフのために泣いた」(創世37・35)とあるように。
本にも引用されているH・S・クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』(岩波書店・二〇〇八年)という本を読んだ時には、私は娘を亡くしておらず、本当の意味でこの本の内容を理解していなかったと思います。しかし、この樋野先生の本を読む今は、「アーメン」の連続でした。
病を患う本人、それを支える家族、担当医、霊的に受け止め祈る牧師や教会員。樋野先生も多くの方を支え、その声を拾い伴走してきました。その集大成と言うべきこの著書を、多くの方に読んでもらいたいと思います。
心の共鳴なしに見舞うことは高慢であると、つくづくこの本で思い知らされました。本当の寄り添いとは何なのか。共感、共鳴とは何なのか。死の病の淵に立つ人とどう対峙するのか。闘病中の本人やその家族だけではなく、良き隣人として生きることを望むすべての人にお薦めしたいです。
中でも私が最も心に残った言葉は「正論より配慮」という言葉、そして次の文章です。
「苦難が人を成長させるのは事実ですが、苦難そのものが人を成長させるわけではありません。苦難に際してどう向き合うかが肝心です。苦難によって心が曲がってしまい、さらなる苦難を引っ張り込むこともあります。苦難に向き合う時、その背中を押し、手を差し伸べてくれるのは神であり、良き隣人です。しかし本人に意思がなければ、神もまわりの人もお手上げになることでしょう。」(43頁)