連載 グレーの中を泳ぐ 第4回 カナダで受けた慰めと、再びの嵐

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

リストカットをしたことは誰にも何も言いませんでした。正面から向き合ってくれる人もなく……あるいは、いたのかもしれませんが、私自身が向き合うことを恐れていたのかもしれません。私はただ、キリスト教についてではなくキリストについて、聖書についてではなく聖書そのものを知りたいと渇望するようになりました。
一九九〇年、大学の神学部に入学しました。そこで初めてキラキラの「本物」の献身者に出会った気がしました。私以外の誰もが、召命や奉仕、学び、人格、すべての面で「ふさわしい献身者」に見え、ああ、やはり私は偽物だ、ここにいるべきではない、と思いました。
私はギリシア語、英語、神学のクラスのどれにもついていけませんでした。それは神学生としての気合いや努力が足りず、また、私が「本物の献身者」ではないからだ、と思いました。これ以上大学生活を続けられないなら、生きる意味も価値もないと思いつめた私は、寮の空き部屋で自殺を図りました。
救急搬送され、意識を回復した時に、隣のベッドではある家族の父親らしき人がまさに亡くなろうとしているところでした。「お父さん、頑張って」と家族が励ましています。そしてついに亡くなられると「お父さん、頑張ったね。ありがとう」と声をかけているのが聞こえました。私はその声を聞きながら「必要とされ、生きるべき人が死に、死ぬべき私が生き残った」と思いました。その深い思いは、その後何十年も私の心の奥底に張りつくことになりました。
その後、友人が自分の叔母がカナダにいるから行ってみないか、と言ってくれたこともあり、大学を休学しカナダへ行くことにしました。
ところが、カナダに着いて一週間で、受け入れ先の家族の都合で私は、朝七時にスーツケースと共に道路に放り出されました。呆然と立ちすくみ、しかし何とかしなくてはと、到着してすぐに行った教会の牧師に電話しました。死ぬ気になればめちゃくちゃな英語も通じ、バスにも乗れ、何とか教会までたどり着きました。驚くことに電話をかけてから教会に着くまでの一時間の間に、牧師はその日からのホームステイ先を見つけてくれていました。
しかもそのご家庭は、牧師の子どもからお金はもらえないと、日本に帰る日まで無料で住まわせ、毎日おいしいご飯を食べさせてくれました。あんなに苦しんだ牧師子女という身分に救われ、ありあまるほどの愛と慰めと親切を受けることになったのです。そして何よりも、それは神様と日々向き合い、祈る時となりました。神はいる、祈りは聞かれる、神の愛はある、それはあたたかく、信じるに値すると感じました。
当時のことで、今でも時々思い出すエピソードがあります。通っていた教会の牧師は、私の心の中に大きな怒りがあることにすぐに気づいたようです。ある時、「ケイコ、手をぎゅっと力いっぱい握って。何秒握れる?」と言いました。私が言われた手を握ってしばらくすると、牧師が「じゃ、手をゆっくり開いて」と言ったので開きました。「気持ちいいね」と私が言うと、牧師は「そうだね。怒りを心の中で握りしめていると疲れる。でもそれを手放すと心が軽くなり気持ちいいよ」と言いました。怒り、恨み、憎しみは心と体を固くし、疲れさせ、それを手放すと、とても楽になることを教えてくれたのです。
休学期間が終わると大学に復学し、心機一転と張り切ったものの、やはり寮生活や健康面で問題が起こり、泣く泣く退学しました。ふるいにかけられて落ちたのだなと思いました。もうキリスト教や教会にはかかわらない、クリスチャンの友だちにも会いたくないと思いました。何度も服薬自殺を図り、夜中に家を飛び出して、誰か車でひいてくれないかと思うような日々でした。
その頃、母は、大学を辞め心が病んでしまった私について、「自分が生涯、一生懸命にご奉仕しますからこの子を捧げますと誓った誓いを取り下げさせてください」と必死に祈っていたそうです。そんな母に私は一度だけ「酒を買ってこい」と命令しました。救世軍は禁酒禁煙なので、母は「教会員に会わないように隣町の店で買ってきた」とポツッと言いました。今、母と同じ牧師、妻、母となり、その時の母の気持ちを思うと身が裂ける思いです。母には母の神との祈りの格闘があったのだなと思います。もちろん父にもあったことでしょう。それはどれほどだったかと思うのです。