連載 ギリシア語で読む聖書最終回 「惑わす、迷わす」(ヴァスケーノー)

杉山世民

 

【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に精通。

 

ガラテヤ人への手紙は、パウロが書いた手紙の中でも、最も激しい、緊張に満ちた「闘い」の書とも言える書簡です。もちろん、この「闘い」はフィジカルなものではなく、パウロにとってイエス・キリストの福音の真理に関わる信仰思想の「闘い」でありました。
では、具体的にガラテヤ教会の中にいたどのような人が「闘い」の相手であったのでしょうか。それが、ガラテヤ人への手紙1章7節に明記されています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。
その「闘い」の相手は、ガラテヤの教会の中にいて、クリスチャンたちを動揺させ、かき乱してキリストの福音を変質させてしまおうとしている連中でした。
3章1節「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
ガラテヤの人たちに「ああ、理解の乏しい者よ」と語りかけるパウロの言葉には、単なる無理解者に対する「罵倒」ではない、もっと温かい感情が含まれています。それは、かつて彼らが信じて受け入れていたキリストの福音信仰こそが、律法の「泥沼」から彼らを解放した貴重な福音であることを知ってもらいたいという強い感情が働いて、このような言葉として表れたと言えます。実際、4章14節には、パウロと読者との間には温かい交わりがあったことが示されています。
パウロとガラテヤ人とは、何ら飾ることなくモノが言える関係にあったに違いありません。パウロは「ああ、愚かなガラテヤ人」と言った後、すぐに「だれがあなたがたを惑わしたのですか」と激しく問うています。この「惑わす」という言葉は、新約聖書では、ここにだけしか使われていない変わった言葉です。NIVの訳ではbewitch「魔法にかける」という言葉を当てていますが、A・ スーターは、to give evil eye toという定義をしています。ガラテヤ人が何か魔法にかけられたように福音から律法へと変節していったニュアンスが感ぜられます。
この言葉は、織田昭氏が『新約聖書ギリシア語小事典』でも見事に展開しておられるように、「妬みの目(凶眼)で見つめて毒す」という意味を持つ言葉です。古代からギリシア人の中にはヴァスカニアの俗信があって、子誉めや若い女性へのお世辞の言葉にという表現があるそうです。「人の羨み(妬み)の凶眼に当たって病気や早死にをせぬように」という意味のようです。つまり、パウロの語る福音によって、ガラテヤ人たちが、律法から自由にせられて得た「福音の自由」に対して、ユダヤ主義者たちが「妬みの目(凶眼)」をもって毒しているという発想が「だれがあなたがたを惑わしたのですか()」という表現の裏に横たわっていて興味深いものがあります。
十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに」という言葉に、パウロが生命を賭して彼らに宣べ伝えた「イエスによる罪のゆるしの福音」(使徒13・38、口語訳)は、明らかに十字架につけられたイエスのことであったことは言うまでもありません。「目の前に描き出す」とは、まるでプラカードに大書して誰でもはっきりと読めるように、ありありと示す意味を持つ言葉です。「あれほどキリストの福音が明らかに示されて、あなたがたは信じ受け入れたのに、いったい、誰があなたがたを、まるで魔法をかけたように、惑わしたのか」とパウロは、再びユダヤ教の律法の呪いの中へと舞い戻ろうとするガラテヤの人たちに涙を流さんばかりに問いかけたのです。

この写真は、筆者がトルコで買った「ナザールボンジュウ」と呼ばれる一般的なお土産品です。これを身に着けたり、部屋に吊るしておくと「邪視からの災いを跳ねのける」と信じられているお守りらしいです。トルコにも似たような昔からの俗信があったようですね。少しグロテスクですが、興味深く思って、四年前に、七トルコリラで買いました。