351 時代を見る眼 関東大震災から100年〔3〕 のこされた者たちの苦しみ

ピアニスト
崔善愛(ちぇ そんえ)

―1923年9月2日、東京中が火事の炎で燃えるなか、「朝鮮人が日ごろの恨みで大挙して日本人を襲撃しているなどというデマが、いかにもほんとうらしく思えてくる」―
当時をこのように回顧したのは、日本を代表する演出家・千田是也(1904―94年)だ。千田は早稲田大学の学生だった。あの日、逃げる朝鮮人を自警団とともに挟み撃ちにしようと家にあった短刀を手に、千駄ヶ谷駅(東京)近くの土手に行った。「鮮人だ!」という叫び声が聞こえるほうへと向かうと、あろうことか竹槍などを手にする男たちに千田が取り囲まれ、「『あいうえお』を言ってみろ」「教育勅語は?」「歴代の天皇の名を言え」と詰問された。が、彼を知る近所の人に助けられたという。のちにこの体験を、自分も加害者の側にいたことを忘れないため自戒をこめて、自らに「千田是也」と名付けた。「千駄ヶ谷のコリアン」という意味だ。
私の周りには祖父が殺されかけたという在日コリアンの友人が複数いるが、「殺しかけた」という加害の側の話はほとんど聞いたことがない。約6000人もの朝鮮人が殺されてもいまだ日本政府は真相を究明しない。それほどまでに朝鮮人の命は軽いのだろうか。
今年8月31日、東京・文京シビック大ホールで「関東大震災朝鮮人・中国人100年犠牲者追悼大会」が開催、1800席は満席だった。中国と韓国からも多数参加し、釜山の遺族会の権在益さんは、祖父・南成奎さんへの想いを語った。建設労働者として来日して2か月、南さんは震災に遭い、群馬県藤岡市の警察署に仲間16名とともに逃げ込んだ。ところがそこに約1000人もの自警団を名乗る集団によって引きずり出され襲われた。虐殺された祖父のことを権さんは祖母と母から聞かされてきた。一家の柱を失った遺族の悲嘆。その苦しみから解放されることはなかった100年の慟哭の日々。その叫びがホールに響いた。
36年間におよぶ日本の朝鮮半島への植民地支配。それはたしかに1945年、日本の敗戦によって終結した。が、堤岩里教会事件など、侵略のなかで起きた数々の虐殺はいまも忘れ去られたままだ。
そしていまも在日コリアンがルーツを隠し、本名を名乗れないのは、「朝鮮人とわかれば殺される」という虐殺と恐怖の記憶が次世代にも伝わっているからだ。未来の子どもたちのためにも、その罪を不問にしてはならない。