日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第5回 音楽と教会

日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第5回 音楽と教会

 

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

世界中どこに行っても音楽は存在します。音楽の種類には好き嫌いがあっても、音楽そのものが嫌いという人はあまり聞いたことがありません。それは人間が、音を奏でる声や、リズムを刻む手足を持つ楽器的な存在として、さらに音楽を作り、音楽を楽しむ存在として神様に造られているからかもしれません。大自然や食べ物と同様、音楽はすべての人間に与えられた神様からの贈り物であるとも言えるでしょう。

聖書の中にも、さまざまな場面で音楽が登場します。旧約聖書には、ダビデの竪琴の演奏で元気を取り戻したサウル王の姿(Ⅰサムエル16・23)や、イスラエルの民が、歌、竪琴、琴、タンバリン、シンバル、ラッパといったさまざまな楽器を用いて喜び踊った様子(Ⅰ歴代13・8)が描かれています。新約聖書では最後の晩餐の後、キリストが弟子たちと共に賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ行った様子(マタイ26・30)や、投獄されたパウロとシラスが牢屋の中で、ほかの囚人たちが聞き入ってしまうような歌を歌ったこと(使徒16・25)が記されています。ダビデの竪琴やイスラエル人のラッパがどんな音を奏でたのか、キリストと弟子たち、またパウロとシラスが、どんな歌を歌ったのか、とても興味がわきますね。

二一世紀の教会においても、音楽は非常に大きな役割を果たしています。音楽を通して、共に神様に感謝をささげ、共に神様をほめたたえ、同時に神様がどのようなお方であるかを再確認します。時には音楽を通して自分の罪深さが明らかにされたり、進むべき道が示されたりすることもあります。

プロテスタント・キリスト教は「言葉の宗教」と呼ばれるほど言葉を大切にします。教会で用いる音楽は、その歌詞の内容が神学的に吟味されていることが重要です。また聖書の翻訳が定期的に改訂されるのと同様、共に歌うすべての人にわかりやすい言葉が用いられることも重要です。難しい(わかりにくい)言葉をあえて使うのであれば、解説が伴うべきでしょう。

言葉が伴わない音楽にも大切な役割があります。礼拝のとき、オルガンの前奏によって心が整えられ、会衆の思いが神様に向けられます。聞き慣れたプレイズソングのメロディーやリズムを通して励まされ、慰められることもあります。

ただ、どのような音楽を通して心が神様に向けられ、励ましや慰めを受けるかには個人差があります。ある人は荘厳なパイプオルガンの音によって、またある人はギターやドラムの奏でるリズムによって心が動かされます。それは、「音楽に対する慣れや好みの傾向」と言い換えることができるかもしれません。私たちは音楽に関して、生まれ育った社会や文化(教会文化を含む)の影響を大きく受けています。特定のメロディーやリズムそのものの中に、退屈だったり、邪悪だったりする要素があるわけではありませんが、ある人は特定の音楽にそのようなものを感じることがあります。

では教会では、どのような音楽が用いられるべきでしょうか。基本的には、より多くの会衆の心がひとつになる音楽が、それぞれの教会によって選ばれれば良いと思いますが、当然そこには「音楽に対する慣れや好みの傾向」の異なる人への配慮が必要となります。

音楽の質(クオリティー)も大切です。聖書の中で「最上の部分」を神にささげること(民数18・29〜30)が求められているからです。音楽の完成度や優れたテクニックもそこに含まれるでしょう。しかし、やはり重要なのは信仰者の心です。レプタ銅貨二枚をささげた貧しい女性(マルコ12・42〜44)に対し、キリストは「だれよりも多くを投げ入れました」(43節)と言われました。教会の中学生が、覚えたてのギターでたどたどしく歌う歌であっても、それが信仰をもって心からささげられている歌であれば、神様に喜ばれることでしょう。

一方、一番良くないことは、習慣的に音楽を選び、心を込めずにそれを用いることです。キリストは習慣化された、儀式的な信仰を常に戒められました。聖書、特に詩篇の中には「新しい歌を歌え」という言葉が繰り返し登場します。そこにはいくつかの大切な意味が含まれています。人生の旅路で信仰者が日々受け取る新しい恵みを、「新しい歌詞や新しいメロディー」で表現し、蓄積し続けていくとき、それを神様は喜んでくださいます。また、思いを新たにするということも重要です。たとえ昔から用いられている音楽であっても、信仰者がつねに「新たな思い」でそれと向き合うとき、同様に神様は喜んでくださるのです。