連載 孤独の中の友へ 〜信じても苦しい人に送る「片道書簡」第10回 友のために命を捨てる神の愛 #4

中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。

 

皆さん、元気にされていますか?
時に聖書を読んでいてつらくなることってありませんか? 私はあるんです。今日は、その時に感じた新しい発見についてお話ししますね。いつも私の話を聞いてくれてありがとうございます。

自分にはそんな愛はない……
私が聖書の中で一番読みたくない箇所が、ヨハネの福音書一五章にある「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(一三節)です。この聖句の前には「互いに愛し合いなさい」とあるので、「そうだよな。互いに愛し合えたら世の中平和でいいよなぁ」と思って読み進めます。そうすると、この聖句が待っているわけです。自分の命を捨てるほどの愛で友を愛しなさいと言われていると思うと、自分の愛のなさを突き付けられているみたいで苦しくなっていました。
だって、自分の中にはそんな大きな愛はないわけです。イエス様を信じたのだから、新しく生まれ変わったのだから、イエス様のように人を愛していけるはず、と何度も努力してみました。でも、やっぱりだめだったんですね。そんな現実を突き付けられ、もう無理だと思って祈っていると、優しくイエス様が語りかけてくれたことがありました。“それは、あなたの中にはないかもしれないけど、わたしはあなたのために自分の命を十字架につけたんだよ”という言葉でした。
聖句にある「自分の友のために命を捨てる」ほどの愛は、私たちの目標としてあるのではなく、イエス様の愛を表していたんだと気づいたのです。そうしたら新しい見方が生まれました。

結果ではなく、過程で神を感じることが大切
私にはそんな愛がないから苦しかったんですけど、その“ない”という部分にイエス様が愛を注いでくれるんだとわかったら、“ない”という不在ではなく、主ご自身を期待する信仰が生まれてきたのです。そして、必然的に自分が優しくなってるなぁと感じたんです。
以前は、一所懸命に愛そうとがんばっている自分でした。その自分はあたふたしてたり、どっかで無理してたり、実は苦しさしか表せていなかったことに気づきました。愛せたか、うまくできたかという結果ばかりを求めていたわけです。でも、それだと、愛が現れないということに気づきました。
その「結果」とは私の都合です。そんなことよりも、自信がなくても、イエス様の愛を私を通して現していく過程にこそ、伝わる愛があるんだと気づいたわけです。それは、自分を信じるのではなく、私の中にいてくれるイエス様を信じることだったんです。
たとえば、病院に行ったとき、カルテしか見ないで、病気になった理由を突き付けられるより、こっちを見て丁寧に対応されたほうが気持ちいいし、愛を感じますよね。結果的に同じ病気と判断され、同じ薬をもらって治ったとしても、丁寧に対応してくれた病院にまた行こうと思いますよね。
結果だけでは寂しいものです。結果ばかり求めていると、私を助けようとしてくれているイエス様が見えなくなってしまうなぁと思ったんです。

「いいね」ではないところで繋がる
今の時代はある意味、成果があるところ、うまくできたところを評価し合う世の中かもしれません。そうすると、いいところでしか人と繋がることができません。私たちはイエス様の前に、できない自分を差し出すことが必要です。それは、SNSで言う、「いいね」をどれだけもらえたかというところで繋がるのではなく、「いいね」と言われないところ、人には言えないような部分で人と繋がることが大切だと思いました。
そうすると、私たちはみんなイエス様の愛が必要な者同士だよね、と互いに励まし合えるのではないかと思いました。そこから、自分の中には「友のために死ねるような愛」がなくても、互いに励まし合える。そして、そこからイエス様の愛がこの世に現れるのだと学んだのです。