特集 三浦綾子 生誕百年 その生涯と作品 三浦綾子が遺したもの―生誕百年

三浦綾子読書会 代表  森下辰衛

 

一九二二年四月、十九歳の知里幸恵は旭川から東京の金田一京助宅に向けて旅立ちました。心臓はすでに深刻な状況で、五か月後東京で『アイヌ神謡集』を仕上げて天に召されました。二度と見ることのない旭川を、幸恵を乗せた列車が離れて行った四月、三浦綾子(旧姓・堀田)はその町で生まれました。そして十三歳になる春、幸恵が学んだ学校(校名は変更)に入学しました。二人は先輩後輩であったのだと今年は強く感じます。命がけで、与えられた使命を果たすべく、弱さの中で神を見上げ、この国のために祈りながら書いてゆく姉と妹のようだったと。

知里幸恵はアイヌとしての使命を、たった一人で神との対話のうちに全うしてゆきました。堀田綾子は、戦争の時代を生き、敗戦によってすべてを失った日本人として、絶望と彷徨と長い闘病の中をもがきながら、ついに神に出会ってゆく道程を歩み通して、その希望を証しする者となりました。

綾子には何人もの豊かな対話相手が与えられました。求道時代には幼馴染みのクリスチャン前川正、そして彼の死後は、生涯を共にする三浦光世。彼は脊椎カリエスでギプスベッドに臥す綾子を「前川正を忘れてはいけない」と励まし祈りました。三十七歳で癒やされた彼女は結婚し、三浦綾子となりました。一九五九年五月二十四日でした。その夜、二人は「きょうより一体となって、神と人とに仕える家庭を築きえますように、わたしたちをお導きください」と祈りました。

五年後、綾子は『氷点』によって作家となり、七十七歳で召されるまで、神の愛を伝え、苦難にある人を励ます作品を書き続けました。夫光世は、腱鞘炎でペンが持てなくなった妻のために、公務員を辞めて口述筆記を担当しました。三浦綾子のほとんどの著作は夫婦の二人三脚によって生み出されました。

夫は、多くの病気と闘う妻を看護し、介護しました。その様子はテレビ放映され、多くの人を励ましました。それもまた、神と人に仕える夫妻の用いられ方でした。光世は妻を天国に見送った後も、三浦綾子記念文学館の要職を担いながら、妻との歩みを信仰の証しとして全国で語りました。三浦綾子が遺したもの、それはまず、何よりも彼女の人生そのものでした。

作家としての三浦綾子が遺したものは、小説を中心にした百冊近い著作です。彼女の作家生涯には四つの時期があります。

第一作の『氷点』から出発して『塩狩峠』『道ありき』などを書いた時期には、主に現代小説と自伝を書き、罪と救い、赦しの愛の問題を追究しました。『氷点』は、旭川に住む辻口家の戦後の十七年余の物語で、人物たちの愛と憎しみが一人の少女を自殺に追いやる悲劇を通して、神のほうを向こうとしない人間の悲劇を描きました。

『細川ガラシャ夫人』から『天北原野』『泥流地帯』『海嶺』までの第二の時期は、歴史長編小説を書いた最も豊穣な時期でした。苦難の中で、人間はいかにして豊かに生きることができるのかを語りました。世界初の日本語訳聖書の翻訳に関わった三人の漂流民を描いた『海嶺』では、国家権力の棄民性を抉り出すとともに、歴史の支配者にして「決して捨てぬ者」である「カシコイモノ」たる神と出会う希望を提示しました。

『海嶺』連載終盤にヘルペスを発病、二年後には直腸癌を病む中で、三浦綾子は書き遺すべき愛と信仰の人の伝記に取り組む第三の時期に入ります。クリスチャン棟梁の一代記『岩に立つ』、綾子を洗礼へと導いた西村久蔵を描く『愛の鬼才』、クリーニングの白洋舎の創設者五十嵐健治の一人語り『夕あり朝あり』、破天荒な牧師の一代記『ちいろば先生物語』など、人を捕らえて用いる神と、その神と共に生きる人生の豊かさを描きました。

最後は、パーキンソン病の進む中で、治安維持法の時代と昭和の戦争を主題とした『母』と『銃口』を書いた時期です。最後の大作『銃口』は、北海道綴方教育連盟事件に取材して、国家権力と庶民の相克、人間として生きることと語ること、戦争と教育者の問題を真正面から取り上げて書いたもので、三浦文学の集大成です。人間の真実な言葉と神の言葉が響き合うところに人間の回復があり、神の国と平和の始まりがあると指さしました。

三浦綾子が間接的に遺したものに、三浦綾子記念文学館と三浦綾子読書会があります。三浦綾子記念文学館は一九九八年六月『氷点』の舞台、旭川市の外国樹種見本林に開館しました。三浦綾子が召される前年でした。以降毎年訪れる数万人の来館者に、三浦綾子の人生と文学の紹介をし、さまざまな文化活動を展開しています。

三浦綾子読書会は三浦綾子召天後の二〇〇一年に始まった、三浦綾子の本を読み、語り合う会です。それぞれの声で読み、心の耳で聴き、それぞれの言葉で語り合う時間を通して、作品理解が深まり豊かな恵みが広がります。

二〇二二年現在、国内外に約二百か所の読書会があり、朗読、演劇、文学散歩ツアー、各種講座や研究会なども開催され、約五百人の会員と約三千人の参加者がつながる活動になっています。
二〇一二年五月には、文学館と読書会が共働して、一万冊余の三浦綾子の本を東日本大震災の被災地に届けましたが、自然災害が人類的な問題になってきた時代、特に『泥流地帯』などは重要性を増してくるでしょう。読書会はまた、若い世代への『道ありき』文庫本贈呈活動を行っています。すでに約五千冊以上を各地の学校、教会などへ贈呈してきました。現代の中学生や大学生の心にも『道ありき』の真実な愛の物語、挫折と苦難と希望の物語は届きます。若い方々も泣きながら聴き、読みたくて『道ありき』を取ってゆきます。

そして三浦綾子が遺した最も重要なもの。それは、三浦綾子の著作を通して神を求め、信仰を求めた人々です。三浦綾子読書会を通して洗礼に導かれた人も百人を超えましたが、それはほんの一部です。二〇一四年六月、『道ありき』文学碑除幕式の最後、三浦光世は「天地を創造された神様」と祈りました。三浦文学と出会って「私にも道はあるはずだ」と道を求めてゆく人々の物語は、天地を創造された神がこの国にお与えになっている、終わることのない希望と救いの物語なのだと、感謝したのでしょう。

三浦綾子 年表
1922年4月 25日、旭川市に生まれる。
1935年4月 旭川市高等女学校へ推薦入学。
6月 妹・陽子結核で死亡。(6歳。のちに『氷点』のヒロインにその名がつけられる。)
1939年3月 女学校卒業。
4月 空知郡歌志内神威尋常小学校に代用教員として赴任。
1946年6月 肺結核発病、13年に及ぶ闘病生活が始まる。
1948年12月 結核で休学中の北大生、前川正と再会。
1952年5月 脊椎カリエスと診断。
7月 病床洗礼。
1954年   前川正、召天。
1955年   三浦光世、初めて綾子を訪ねる。
1959年5月 24日、三浦光世と結婚。
1961年8月 雑貨店・三浦商店を開業。
1963年1月 朝日新聞社1千万円懸賞小説を発表。
12月 31日、小説「氷点」を完成。
1964年7月 1位入選が決まる。
12月 朝日新聞朝刊で「氷点」の連載始まる。
1966年11月 小説『氷点』(朝日新聞社)が出版され、年末までに71万部を記録。『氷点』ブームが広がる。
1968年9月 小説『塩狩峠』(新潮社)刊行。
1969年1月 自伝小説『道ありき』(主婦の友社)刊行。
1973年12月 映画「塩狩峠」完成、公開。
1981年4月 小説『海嶺』(朝日新聞社)刊行。
1982年5~6月 直腸がんのため手術・入院。
1992年1月 パーキンソン病と診断。
2月 NHK「光あるうちに~三浦綾子、その日々~」放映。
1994年3月 小説『銃口』(小学館)刊行。
9月 小説『銃口』で第1回井原西鶴賞受賞。
1998年6月 三浦綾子記念文学館開館。
1999年10月 12日、召天。