新連載 神さま、 なんで? 〜病院の子どもたちと過ごす日々〜

久保のどか

広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟の子どもたちのパストラルケアに携わる。2012年に開設された「こどもホスピス」でも、子どもたちのたましいに関わり、現在に至る。

私は、これまで病院という場所で、キリスト教信仰に立ち、子どもたちの心とたましいの痛みに寄り添う働きをしてきました。子どもたちと過ごすなかで、彼らをまるごと包み、「生きる」を支えている神さまのまなざしにも出会ってきました。

A君は少し落ち着きのない小学生でした。プレイルームで急に大きな声を出し、笑い出すと止まらなくなる様子が見られました。病棟スタッフから、A君は今日特に感情の起伏が激しいということと、A君の感情が不安定なのは、前日に隣の病室の子が急変をして医療スタッフの出入りがあったことが関係しているかもしれないということを聞きました。そこで、A君のお部屋を訪ねてみました。A君が「折り紙をしよう」と誘ってくれ、二人で折り紙をして遊ぶことにしました。

しばらく黙って折り紙をしていると、A君がポツリと言いました。「死ぬのって怖いよな」と。私はA君に尋ねました。「昨日、隣のお部屋で急変したお友だちの様子を見たの?」と。A君はそうだと教えてくれ、そのとき「死ぬのは怖い」と思ったというのです。

そこで、私は神さまのことや天国のことをA君にお話ししました。「私たちは神さまにいのちをもらった存在で、この地上でのいのちが終わると天国に行くと私は信じているんだ。天国には神さまがいて、怖い場所ではないと私は思っているよ。天国には、悲しみがなくて、死もない場所だって聖書に書いてあるんだよ。だから天国はきっと楽しい場所だと私は思うんだ」と。

私の話を聞いたA君は言いました。「天国でもゲームはできるんかな?」と。私は「天国は、私たちがゲームの中に入ったみたいに空を飛んだり高くジャンプしたりもできるんじゃないかなぁと私は思うよ」と。A君は笑顔になり、「へー! そうなんや」と、少し安心した様子でした。そして、「でも、それって信じる人もおれば、信じない人もおるんちゃう? 僕のお母さんは信じへんと思うわ」と正直な気持ちを語ってくれました。そのようなやりとりがあった次の日、A君は迎えに来てくれたお母さんと一緒に退院していきました。

入院している子どもたちは、日常生活では特別意識しなければ向き合う機会が少ない「いのち」や「死」という生々しい現実の中に置かれます。聞き慣れない医療機器の音や、他児の泣き声に囲まれ、本人には、なぜ必要なのかが十分に理解できないまま治療や処置が進んでいくこともあります。ですから、子どもたちにとって病院は安心できる場所というよりも、身の危険を感じることの多い場所なのです。そのような場所で起きた他児の急変は、A君にとって、心の準備をする間もなく「いのち」や「死」と向き合わされるような衝撃的な出来事だったのでしょう。そして、「死」という得体の知れない現実をどう受けとめたらよいのかわからず恐怖に感じたのかもしれません。その恐怖がA君の不安定な状態に表れたのではないかと私は思います。

言葉では表しきれないたくさんの不安や疑問を持ちながら過ごしている子どもたちは、遊びの中や、おしゃべりをしながら、こころに持っている気持ちを不意に見せてくれたり、疑問を投げかけてきてくれたりします。そのような子どもたちのこころが置いてきぼりにされるのではなく、少しでも受けとめられますようにと祈ります。心を受けとめてもらう小さな体験を重ねていくことを通して、子どもたち自身が自分の気持ちを置いてきぼりにせず、大切に受けとめていくことができればと願っています。

あの日、折り紙をしながらした天国についての会話が、A君の恐怖を和らげられるお話であったのかどうか、A君の気持ちをしっかりと受けとめられたかどうかはわかりません。しかし、それでもA君がこれからを生きていくなかで「生きる」の先にある「死」は恐怖ではなく、神さまの天国へとつながっているのだという想いがA君の内にほんの少しでもとどまってくれたら良いなと心から願い祈りました。

「また私は、新しい天と新しい地を見た。……『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』」
(ヨハネの黙示録二一章一節a、三節b)