日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第22回 天国への備え

岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

エジプトの地からイスラエルの民を導き出したモーセは高齢となり、地上での使命を終え、神によって天に召されますが、その時、「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命34章7節)と聖書に記されています。

一方、モーセの後継者ヨシュアも、月日の流れとともに高齢になりますが、神に、「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている」(ヨシュア13章1節)と告げられ、その後も長く地上において与えられた使命を果たし続けました。

生と死をつかさどっておられるのは神であり、信仰者であっても、自身の最期がいつどのような形で訪れるかをはっきりと知ることはできません。しかし信仰者は自らの死に絶望することもありません。キリストは十字架の死からの復活によって「死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示され」(Ⅱテモテ1章10節)、そして、「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14章2節)と言って天に昇られたからです。

神様から与えられた使命を全うできるよう、日々歩むことは大切です。しかし、だからといって信仰者は、地上での生活だけに目を向けて生きるべきではありません。年齢や健康状態にかかわらず、「自分はいつどのような形で地上での命を終えるのかわからない存在である」ということを、常に自分に言い聞かせつつ天国への備えをすべきでしょう。では具体的にそれを「確認」「解決」「準備」の三つに分けて考えてみましょう。

「確認」しておくべき最も大切なことは、自らの「救い」です。聖書は私たちに、自分の罪を悔い改め、キリストを神の御子と信じ、告白することを通して救われると教えています(ローマ10章9節、Ⅰヨハネ1章9節)。いつ最期の時が訪れてもよいよう、そしてその時に慌てないよう、常日頃から自分の「救い」を心の中で確認しましょう。もし自分の中に揺るぎない「確信」がないようであれば、それが与えられるように神に祈り、また信仰の友や、牧師に相談する機会を持ちましょう。

「解決」しておくべきことは多くありますが、大切なことのひとつに人間関係があります。マタイの福音書5章23〜24節には次のようにあります。「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」それは地上での命を終える前に、和解しておくべき人はいないか、赦しを乞うべき人はいないか、また逆に心から赦すべき人はいないかと自らの心を探るということです。実際に相手と会うべき場合も、また自分の心の中だけで解決すべき場合もあるでしょう。もちろん、刻まれた心の傷が深ければ深いほど、そこには困難が伴います。しかし解決に向けて前に進もうとする時に、神様はそれを喜び、また助けてくださいます。

「準備」しておくべきことも多くあります。まずは「証し」です。内容は、自らの救いの経緯に加え、神から自分に与えられた使命や目標は何か、地上にいる間どのように生きていきたいかについても、導かれた聖書の言葉とともに書いておくとよいでしょう。時々それを書き直し、そこに書き加えることも有益です。自分の思いを言葉にしておくことで、特に地上での命の限界が具体的に見えてきたときに良い指針となります。またこの「証し」は、第三者にその所在を知らせておきましょう。

身辺の整理も大切な準備です。地上にある物は、天に持っていくことはできません。家族も含め、他者が喜んで引き取ってくれる物は、自分が思う以上に限られています。趣味の収集物等はなおさらです。中には他者にあまり見られたくない物を大切にしまっている場合もあるでしょう。早めの身辺整理は、後々のストレスを軽減します。本当に価値のあるものは、最も相応しい行き場を早目に決めておき、身軽になって天国に備えたいですね。

葬儀の準備も大切です。あらかじめいろいろ手を打っておくことで、残る人の負担を軽減することができます。ただ、葬儀は自分のためではなく、残される人たちのためであるということを忘れないようにしましょう。自分の願望だけにこだわらず、周囲の人々の意見をよく聞きながら準備することをお勧めします。

年齢や健康状態にかかわらず、信仰者には常に「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3章20節)という告白にふさわしい生き方が求められています。それは天国へ行く備えをしつつ、再臨という「キリストの、栄光ある現れを待ち望む」(テトス2章13節)ことでもあります。