戦争の「記憶」を読む

戦後生まれの人口が全体の八割を超え、戦争体験を聞く・知る機会が減りつつある中、次世代に「戦争」をどのように伝え、残していけばいいのか。これまで出版した「戦争証言」の書籍を取り上げ、かつての「記憶」をたどる。

『神様のファインダー
元米従軍カメラマンの遺産』抜粋
従軍カメラマンとして、戦後直後の日本で原爆の悲惨さをカメラに収め続けたジョー・オダネル。自らも原爆による後遺症を負いながら、反戦・反核活動に費やしたその生涯を、撮影した数々の写真とともにたどる一冊。
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◆壊滅した広島
佐世保にしばらく滞在したあと、私は海兵隊の親しいパイロットに、広島に連れて行ってくれるよう頼みました。世界で初めて原子爆弾が落とされた街をこの目で見たかったのです。……

飛行機で一時間ほど飛び、パイロットに着いたと言われて上空から辺りを見回しました。「これが広島?」 私が想像していたイメージとは全然違いました。街などなかったのです。すべてが平らで、瓦礫とほんの少しの破壊された建物が見えるだけ。……私は呆然として何も考えられなくなり、パイロットに着陸してくれと言うのが精いっぱいでした。

私たちは爆心地近くの空き地に着陸しました。「こんな場所に足を踏み入れて大丈夫なんだろうか」という不安を感じながら一歩を踏み出した瞬間、地面の柔らかい感じに驚いたのを覚えています。方角などまったくわかりません。すべてが灰色と黒の石やコンクリートの塊で、建物など一つも見当たりませんでした。……

少しずつ目が慣れてくると、信じ難い光景が目の前に広がっていました。数え切れないほどの人間の骨。白く漂白されたような人骨がほこりにまみれているのを目にしながら、私は、ここにはもう骨しか残されていないことを悟りました。絶望感に打ちのめされ、自分がどこにいるのかもわからなくなりました。何千、何万という人々が住んでいたはずの街が、たった一発の爆弾で廃虚と化してしまったのです。すべてがなぎ倒された真っ平らの爆心地を、我々は「グラウンド・ゼロ」と呼びました。まったく人気がない。そこで私は思いました。「神よ、我々は一体何をしたのですか」と。……

◆焼き場に立つ少年
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。彼らは六十センチほどの深さに掘った穴のそばで作業をしています。

やがて、十歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に負っています。弟や妹をおんぶしたまま広場で遊んでいる子どもたちの姿は、当時の日本ではよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的をもってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすりと眠っているのか、首を後ろにのけぞらせていました。

少年は焼き場のふちに五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づいて赤ん坊を受け取り、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に焼けるジューという音がしました。

それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。

少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が鎮まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

◆トランクの封印を解く
一九四六年、私は広島・長崎で体験した凄惨な記憶をトランクの中に封印しました。……

ところが、一九八九年のある日のことです。ケンタッキー州にあるカトリック系の施設を訪ねた際、一人のシスターが作った彫刻像に出合ったことで、すべてが変わったのです。

十字架にかけられたイエス・キリストを思わせるその男の体には、被爆者たちの写真が一面に貼られています。私は大きな衝撃を受けました。それを見た時の気持ちをどう表現したらいいのでしょう。無実の人々、多くは老人、女性、子どもたちにあれほどの非人道的な恐怖と苦しみを与え、荒廃をもたらした爆弾を自国が投下した事実に、私は深い悲しみ、そして激しい怒りを覚えました。

その当時のことを思い出すのは耐え難い苦痛でした。長い間、何も感じていないふりをしてみたり、悲惨な思い出を無視しようとしてきました。しかし、自分が広島、長崎、佐世保、東京など、過去訪れた場所に立ち尽くしている悪夢を見る日々が続き、ついに私は、このことに直面しない限り傷が癒やされることはないのだ、ということに気づいたのです。……

私は、広島、長崎に落とされた原爆がどれほどの痛みや苦しみ、そして荒廃をもたらしたかを、世界に向けて訴えていかなければならないと決意したのです。(本文より)

 

読者のみなさまへ(編著者・坂井貴美子氏より)
戦争、原爆投下という言葉を聞いてピンとくる人が少なくなってきた時代に私たちは生きているわけですが、わからない、自分とは関係がないと言いきってしまっていいのでしょうか。このまま、戦争を知らない世代の人間として、過去に起きたことから目を背けて平和な時代を歩み続けることができるのでしょうか。

過去に起きた出来事から学べることは山ほどあるはずです。なぜ学ぶことが必要なのかと言われるかもしれませんが、歴史は繰り返すという言葉のとおり、人間は悪を繰り返す傾向がある存在です。戦争のない時代が続いたからといって、これからずっとそのような時代が続くとはかぎりません。ですから、過去を振り返って学んでいくことはこれからの時代を担う世代の人々には重要なことだと私は思っています。

 

『もしも人生に戦争が起こったら ヒロシマを知るある夫婦の願い』抜粋
戦争がひとたび起これば、一人の人生にどれだけの影響を与えるのか。幼少期に広島で被爆した居森清子さんの証言、そしてその戦争の災禍を共に背負い続けた夫・公照さんの証言から戦争を見つめる。図版、写真、当時の時代背景の解説をふんだんに盛り込み、戦後世代にわかりやすいようにとの工夫がなされた一冊。
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一九四五年八月六日。その日は月曜日で、日本精鋼に勤める父はいつもは出勤していましたが、電休日ということで自宅にいました。私は朝、両親と弟に見送られ、同じ歳で仲良しの青原和子さんと一緒に本川国民学校に向かいました。……

その瞬間、突然辺りが真っ暗になりました。音も、光もありませんでした。隣にいる和子さんの姿すら見えません。私は何が起こったかわからず、一瞬地獄に落ちたのかと思いました。それが、投下された原子爆弾が炸裂した瞬間だったのです。……

どこかから、「火が出たから、川へ逃げろ!」という声が聞こえ、運動場の方に行った私は、そこで再び立ち尽くしました。至る所が火の海で、すべてが燃えています。そして校庭には、真っ黒に焦げ、あるいは体がぱんぱんに膨れた人間らしい物が、何体も倒れていました。……

私はまだ十一歳の子どもでしたから、どうしたらいいかわからず呆然と立っていました。すると、職員室の方から二人の女の先生が走り出てきて、「早く川に入りなさい」と言います。……

その日、広島の海は八時過ぎに満潮を迎えていました。そのため川の水位も高く、川底に足が届かずに、ほとんどの子が力尽きて流されていきました。私たちは大勢の人が乗ったいかだにつかまることができ、「友達の分まで頑張ろう」と自分に言い聞かせ、必死でしがみついていました。……

結局私たちは、朝の八時過ぎから、黒い雨が降った午後三時過ぎぐらいまで、ずっと川に浸かっていました。……

両親は、熱線と火災によってひどい火傷を負い、運び込まれたのでしょう。近所のお寺に収容され、そこで亡くなったようでした。弟の則之は、母の目の前で焼け死んだそうです。爆風で崩れた何かの下敷きになっていたのか、助け出すことができなかったとのことでした。……

考えてみると、目の前で肉親を亡くした被爆者の方がたくさんおられる中で、私は親の苦しむ姿を見なくてすんでよかったのかなとも思えます。当日の朝、「行ってきます」と言って別れたきりですから。おそらく、両親も傷つきながら私を捜し回ってくれたのだと思います。でも、学校の方は爆心地に近くて火の海ですから、とてもこちらまでは来られなかったのでしょう。

今になっていちばん悲しいのは、母と弟の顔を覚えていないということです。父は、写真が残っているのでわかりますが、母と弟は写真がなく、私の記憶も薄れてしまって、もう思い出すことができません。それが、いちばんつらいことです。(本文より)

 

読者のみなさまへ(著者・居森公照氏より)
1941年12月8日朝、ラジオの臨時ニュースで日本による真珠湾攻撃が報道されると、大人たちは「万歳」「万歳」と喜んでいました。それから約4年後の1945年8月15日正午、昭和天皇により日本の敗戦が報じられました。

その当時のことを体験し、記憶している人は年ごとに少なくなってきました。86歳の私は、戦時中の苦しみ、悲しみ、恐ろしさを体験した者として、平和な世界の大切さを多くの人々に訴えたいとの思いが年を重ねるごとに強くなり、この文章を書いています。

「日本は絶対戦争に負けない」「最後には神風が吹いて助けてくれる」とまで教え込まれ、多くの人々が戦地や空襲で生命を失う悲しさの中、食べ物がなく毎日おなかをすかせていたこと、さつまいもやかぼちゃの茎、米ぬかまでを食べて飢えをしのいでいたことを話しても、若い人たちには理解が難しい現在です。お金さえあれば、近くのコンビニで欲しいものが何でも買える時代では、想像することも難しいのでしょう。お金があっても品物がなくて苦しんだあの頃。物があってもお金がなくて困っている人がいる現在。

自分の国が戦争を始めると、国民が体験する苦しみ、悲しみは大変なものなのです。国の命令で人々が戦場に送られ、人殺しを命じられ、尊い生命を失う。このようなことが、今も私たちの住む地球上のどこかで繰り返し行われています。

「人の生命は全世界の富にもまさって尊く大切なもの」と聖書は教えています。私たちは戦争の苦しさ、広島・長崎への原爆の悲劇を体験しました。私は生命あるかぎり、平和の大切さ、戦争の愚かさを訴えてゆきたいと願っています。

 

戦争を知らない世代より
hi-b.a.スタッフ 水梨郁河
今年八十六歳になったおばあちゃんが昔、「空襲が来たら、目と耳を押さえて伏せたんだ」と話してくれたことは、今でも忘れられない。

その中でもボクの脳裏に焼き付いているのは、戦争の話よりも、普段は元気で弱さを見せないおばあちゃんが、悲しい顔をして、ぽつりぽつりと口を開く姿だった。

夏休みの宿題として、「戦争証言を聞いてくる」という課題が出たのは、ボクが小学生の時だった。

今日、学校でそのような宿題が出されることはあるだろうか。

あのときボクは、教科書やネットで読んだ時には得られない戦争の「継承」を初めて体験した。

継承とはなんだろうか。
相続ならば、手続きを済ませるだけの簡単なものかもしれない。でも継承は、受け取り側の覚悟だけでなく、差し出す側も痛みをともなうものではないだろうか。ボクのおばあちゃんがそうだったように。
「若者は投票に行かない。」
「政治に関心がない。」
「戦争について楽観的すぎる。」
大人たちのそんな声を聞くことがある。でも、若者は知らないだけなのだ。若者はわからないだけなのだ。

知りたいと願っている若者に対して、痛みをともなう継承をしてくれる大人が日本には、どれだけいるだろうか。

ボクら若者を愛してくれて、ボクらの未来に期待してくれて、話したくないこと、話しづらいこと、つらかったこと、苦しかったことを、話してくれる人がいったいこの日本に、教会に、どれだけいるだろうか。

若者の側から聞けばいいではないか、と言うかもしれない。でも、ボクらは知らないことは聞けないのだ。あの時代に教会がどんな過ちを犯したのか、どれだけ傷ついたのか、どれだけ傷つけたのか。

だから、教えてください。愛してください。教会で若者たちに語ってください。あなたにしかない声と言葉を使って。未熟なボクらが同じ過ちを犯さないために、平和な未来を作ることができるように。

聖書記者たちが次世代の人たちのために、自らの過ちを教訓にするようにと恥を明らかにし、継承したように。

平和のために必要なことは、テレビや教科書による記録の伝達だけでなく、魂から魂に流れる記憶の「継承」なのではないだろうか。