日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第19回 信仰継承

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

信仰継承は、教会にとって最も大切な課題のひとつです。年齢が上の代から下の代へと信仰がつながっていくことで、はじめて教会として未来に向かって存在しつづけることができるからです。 

「継承」という言葉を辞書で引くと、「引き続いて受け継ぐこと」「上の代からのものを受け継ぐこと」等とあります。「受け継ぐ」わけですから、ある意味その責任を担うのは下の代ということになります。しかし、日本の教会の中で語られる信仰継承はほとんどの場合、上の代の責任として語られ、さらに下の代が教会から離れてしまったときには、上の代はそれに失敗したと受け止められます。

もしかすると多くの日本のクリスチャンの持つ感覚は、「信仰伝授」に近いのかもしれません。「伝授」とは「学問・宗教・芸道などの奥義を伝え授けること」という意味の言葉です。では、信仰とは「継承」するものでしょうか。それとも「伝授」するものでしょうか。

聖書を読むと、いずれの言葉も不的確であることがわかります。コリント人への手紙第一12章4節以降には、神様が人間に与えてくださる、さまざまな賜物がリストアップされており、9節にはそこに「信仰」が加えられています。すなわち「信仰」とは、神様からの贈り物(賜物)であり、クリスチャンが世代間でやりとりする類いのものではないということになります。神様への信仰の有無は、神様ご自身が責任(または権利)を持っておられると言い換えることができるでしょう。

では、人間の側ですることは何もないのでしょうか。そうでもありません。聖書は、上の代の信仰者が下の代に対して果たすべき役割について多くを語っています。ルカの福音書10章27節には最も大切な聖書の教えのひとつとして、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と書かれています。これは申命記6章5節の引用ですが、直後の6節以降には、イスラエルの人々に対して、この教えをどのような時に、どのような方法を用いて子どもたち(下の代)に伝えるべきかに関する具体的な記述があります。

まず7節にはこう書かれています。「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。」
多くのクリスチャンはややもすると、毎週日曜日の教会学校での時間や礼拝の時間だけが、神様や信仰について子どもたちに伝える機会であると考えてしまいます。

しかしこの箇所は、日々、そして常にそれをしなさいと教えています。もちろんそれは一日中しゃべり続けるということではなく、家庭も含めたさまざまな場所や機会を用い、時には言葉を、時には模範となる行動を、時には子どもたちの声に真摯に耳を傾けることなどを通して、彼らに寄り添いつつ、日々の生活のさまざまな場面の中で教えるということを意味しています。

また8節にはこうあります。「これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。」

ユダヤ教の一部には現在でも、「テフィリン」と呼ばれる、聖書の言葉の書かれた紙が入った小さな箱と、そこからつながる紐を額から腕へと巻きつけ、朝祈る習慣があります。そこには考えることや行うことにおいて、常に神様に従順であることの大切さを身をもって感じるという意味があります。ここでも言葉だけではなく、さまざまな体験的な方法を用いた学びが強調されています。8節の冒頭には「これをしるしとして自分の手に結び付け」とありますが、子どもだけがそれをするのではなく、まずは大人が自ら率先してそれを行うことが求められています。

さらに9節には「これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい」と書かれています。「戸口」は家に出入りする時に必ず通る場所、「柱」は家を支えるために不可欠な部材です。そこに文字が書かれていれば、それを無視して生活することはできません。「主を愛する」という教えは、日々の生活の中心に置かれていなければならないということです。

神様はイスラエルの人々に、子どもたちを教え導く役割を重要な働きとして皆で共有するよう求めました。今日の教会でも同様です。上の世代から下の世代へと信仰をつなげていくには、子どもの親や教会学校の先生だけでなく、教会全体がその役割を担うという意識を持つことが重要です。また「信仰」が神様の賜物であるとは、教会の子どもたちが、最も相応しい時に信仰を持つことができるよう熱心に祈り求めつつ、あとは神様に委ねることでもあります。