往復メール kei Vol.6 いのちについて

那須 敬
国際基督教大学 社会科学科助教授(西洋史) JECA 西堀キリスト福音教会会員

 2006年後半は、学校でのいじめと、これによる子どもの自殺という痛ましい出来事が問題になったね。いじめは最近に始まったことではないし、日本だけの問題でもないけれど、メディアが取り上げると急に話題になる。

 なぜ見抜けなかったのか、なぜ防げなかったのか、と責任追及する大人が多い。けれど、いつも誰かがギリギリまで追いつめられることで成り立つ社会に生きているのは、子どもだけじゃない。いじめの責任は僕たちがつくる社会全体にあるとも言える。

 その一方で、いちど極限まで追いつめられたら、人が死を選ぶことは「仕方がない」と、あきらめている人が多いようにも見える。僕にはこっちのほうが残念だ。神さまのいない世界に生きることの切なさを思う。追いつめられたとき、目の前の現実がすべてで、他に選択肢がないならば、絶望を選ぶしかないと人は思うだろう。けれど信仰を持つということは、「苦境→死」という、この世で仕方なく受け入れられているパターンではない別の受け止め方、別の生き方ができるということ。目に見える現実を超えたところに真実なものがあると知ることだ。これはちょっとした発想の転換とか、気持ちの切り替えなどとはまったく違う。

 「空の鳥を見なさい。…あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイ6:26)

 イエス・キリストのこの言葉を教わる教会学校の子どもたちは、なんと幸せだろう。なぜ今生きているのかを知り、自分に一生の助け手がいることを知るのだから。

 神さまなしで「いのちの大切さ」を語ることには限界があるし、ただ「がんばって」と呼びかけるのはむなしい。キリストにある慰め、力、そして自由を、日本のクリスチャンは友人に、家族に、子どもたちに伝え続けてほしいと思う。