泣き笑いエッセイ コッチュだね!みことば編 第16回 ほうっておくのか

朴栄子 著

 

「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」(出エジプト2・20、新共同訳)

人間、心にやましいことがあると逃げ出します。嫌なこと、直面したくないこと、触れられたくないことがあると、スルーッといなくなる。今どきの言い方なら、バックレるのは、よくあることです。
出エジプトの立役者、偉大な指導者モーセ。律法をシナイ山で授与され、海が真っ二つに割れるあの奇跡で民を先導し、荒野の四十年の旅路を導いたヒーロー。
そんなモーセも若いころには、バックレました。もともとは当時エジプトで最下層のヘブル人の家に生まれましたが、王女に拾われ、養子となったシンデレラ・ボーイ。食事も身支度も教育も、最高のものを与えられてぬくぬくと過ごしました。

そんな彼が成人したある日、同胞がエジプト人にこき使われ、乱暴されている現実を目の当たりにします。ヘブル人の血が騒ぎ、カッとなって相手のエジプト人に襲いかかり殺してしまったのです。

そんなつもりじゃなかった、つい手が出たけれど殺すつもりじゃなかった、というなら情状酌量の余地があります。ところが彼は、人がいないことを確認してからエジプト人を殺して砂に埋めているのです。故意の殺人と死体遺棄。重罪です。

目撃者はいないと思いましたが、甘い甘い。翌日にはそのことが明らかになり、慌てて逃げ出します。温室育ちの王子さまから一転して、指名手配犯に。

逃亡先のミディヤンで、一体これからどうすればいいのかとボーッと井戸端に座っていると、羊飼いがやってきます。ふと見ると、後から来た男どもが女羊飼いに割り込んで嫌がらせをしています。

すっくと立ち上り、悪いやつらを追っ払うモーセ。

「お嬢さんたち。もう大丈夫。さあさあ羊に水を飲ませてあげよう」
「まあ、なんて優しいお方!」(七人の女子は目がハート)
みたいなやりとりがあったかどうかはわからないけれど、それから娘たちが家に帰って事情を話すと、父親のレウエル(祭司イテロ)は、急いで戻ってその親切な人を連れてくるようにと言います。

「どうしてその方をほうっておくのだ」

このことばは、そのまま神さまがわたしに向けた愛の告白として、ズキュンと響きました。
暴行殺人と死体遺棄、そして逃亡。犯した重罪と比較するなら、モーセがした小さな親切は取るに足らないことです。それなのに神さまは、そんなことにも目を留めていてくださるのです。
十一月号にも書きましたが、うつで落ち込んでいたころ、神さまへの悔い改めと、この地域のために何の役にも立っていないという申し訳なさから、朝、近所のゴミ拾いをしました。やったとも言えないほど、ほんの少し。

それからしばらくたって、わたしは健康を回復し、ハングル教室などを通して近隣の人が出入りするようになり、暗かった教会は生気を取り戻しました。常にイライラしていたオモニとの生活も、まるでつきものが落ちたかのように楽しくなりました。

何もできなかったあのころ。たくさん祈ることも、聖書を読む気力もない。心に広がる虚しさをどうすることもできず、ただ時間だけが過ぎていきました。

教会に来てちょこっと祈って、ゴミ拾いをして、オモニの介護をして、毎週の礼拝をギリギリなんとか続けていただけの日々。そんな小さなことの一つ一つを、神さまはつまらないことだとは見られず、豊かな恵みをもって報いてくださいました。

モーセは逃亡先で、歓待されて食事と宿を得たばかりか、なんと、伴侶までゲット! 桁外れの恵み!

道端の吸い殻を拾うことしかできなかったわたしが、毎朝のメルマガやこのエッセイを通して、誰かを励ますように導かれました。アメージング・グレース!

おまえが大切だよ。価値があるよ。ちゃんと見ているよ。わたしの大事な娘(息子)なんだから、必要なものは全部与えるよ。ほったらかしになんて、できるわけないよ。

そんなあたたかい神さまの愛、ほとばしる情熱、主とともに歩む豊かな人生を、伝えていきたいと思います。

在日大韓基督教会・豊中第一復興教会担任牧師。1964年長崎市生まれの在日コリアン3世。
大学卒業後、キリスト教雑誌の編集に携わる。神学修士課程を修了後、2006年より現職。

*「コッチュ」は韓国語の「唐辛子」のこと。小さくてもピリリとしたいとの願いを込めて、「からし種」とかけています。