泣き笑いエッセイ コッチュだね!第10回 鏡よ鏡よ、わたしはだあれ?

#更年期 #うつ #親の介護 #教会のピンチ #牧師の孤独 #みことばの黙想 #おひとりさま #トンネルを抜ける #オトナの坂道 

朴栄子 著

 

八月第一週目の「平和聖日」を、東北のある教会で過ごしました。礼拝後、一人の方が言われました。

「人類は戦争反対と言い続けているが、いまだになくならない。なぜ争うのかを考えなければならない」

 

人は異質なものを排除しようとします。多文化共生や多様性などが謳われていますが、真っ向からそれに反するような出来事が多い昨今です。

自分とは違う肌の色、文化、ことばや習慣、考え方などに接したときに、喜んでそれを知ろうとするのではなく、シャットアウトしてしまう。それは、敗者になりなくない、自分の存在を脅かされたくない、という自己防衛本能と恐れから来ていないでしょうか。

人間は誰しも弱い存在です。だとしたら、弱さをさらけ出せることは、強みになります。常に完璧でなければならない、強くあらねばならない、失敗はゆるされないという不文律に生きることは、過度の緊張を伴うからです。

鏡に向かって「世界でいちばん美しいのはだあれ?」と問い続けた『白雪姫』の魔女のように、本当の自分を直視できなければ、脅かす存在を蹴落とすしかありません。

 

今年の五月、女子プロレスラー木村花さんが「弱いわたしでごめんなさい」とのことばを遺して逝去しました。ちょうどこの連載の8月号「黒船とSNS」を執筆していたところでしたので、衝撃を受けました。

この問題を検証する番組では、ネガティブなコメントを投稿した人を丁寧に取材していました。その一人は、「自分も弱いところがあるので、成功している人からきついことを言われると腹が立って、つい書いてまった。まさかこんなことになるとは……」と、とてもショックを受けた様子でした。

「ネット上でひぼう中傷する人の多くは、自分の価値観で持っている『正義感』から『いいことをしている』と思い、他人を攻撃しています」「一時的な感情にまかせて攻撃してしまった人も多かった」(山口真一、「木村花さんの死が問いかけるもの」NHKクローズアップ現代+・HPより)

こんな奴は放っておけない! そんな歪んだ正義感で人をジャッジでする。間違いなく言えることは、その人たちは、ちゃんと鏡で自分の姿が正視できていないということ。優位に立てる相手を攻撃して、自分の正しさを主張しなければ、立っていられないのです。

そう考えると、いじめや差別は決して強い人がするのではなく、自分から逃げようとする弱い人がするものなのかもしれません。

 

わたしがうつで落ち込んで、やる気スイッチがあれば入手したいと思っていたころ、最もつらかったのは、自分のことが嫌い嫌いでたまらなくなったことです。

セルフイメージは健全だと、ちょっと前まで思っていたのに。いい人と思っていたのに、謙遜な人と思っていたのに、なかなか頑張っている牧師だと思っていたのに。実は、なんにも中身のない人間。張りぼてのクリスチャン。ショックでした。でも、それもまた恵みでした。

改めてなんて自分は弱いのだ、罪深いのだ、どうしようもないのだということを、突き付けられたのです。見たくもない醜い自分を直視したとき、それでも尊いと言ってくださった、神さまの恵みの深さが身に沁みたのです。

恐れが取り除かれました。パウロのように「弱いときこそ強い」のだと、自分をさらけ出せるようになりました。イエスさまがいのちをかけてあがなってくださったわたしを、わたしが赦し祝福したとき、神さまとの関係も修復されました。すると、自分のことが大好きになりました!

自分が大切なので、母タミちゃんもものすごく大切。同じように、他の人も大切に思えるようになりました。

 

差別や暴力、憎しみの連鎖は、天から降って来るものではないし、相手が悪いのでもありません。
「どうか自分を責めないで。誰も責めないで。ヘイトの連鎖をもう止めてください」という木村花さんのお母さんのコメントが、心に迫ります。

争いは自分の内側から起こるのです。自分のなかに差別や戦争の根っこがあるのです。あんなひどい人はいなくなればいい、と毒づいてしまうその源泉が、自分を受け入れられないことにあるのです。平和は足元から。神さまと和解し、自分と和解するところから始まります。

 

「キリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい」(Ⅱコリント5・20)

在日大韓基督教会・豊中第一復興教会担任牧師。1964年長崎市生まれの在日コリアン3世。
大学卒業後、キリスト教雑誌の編集に携わる。神学修士課程を修了後、2006年より現職。

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