310 時代を見る眼 コロナ禍における教会を考える〈1〉 信仰共同体の本質を問う契機

コロナ問題に直面したとき、以前ある人が「キリスト教は集会の宗教だ」と語気を強めて語っていたのを思い出し、その説明不足とも思える単純な表現が急に意識にのぼってきました。
たしかに「集まること」に重点が置かれ、いつも物理的に集まった出席者数を評価の対象にしてきた教会の歴史があります。
しかし、このたび、新型コロナウイルス感染症が発生し、学校閉鎖や在宅勤務また個人においても外出自粛などが要請され、教会も集会の自粛や休止を余儀なくされました。つまり、「集まる」という行動に外発的な制限が加えられ集会は開けなくなったわけです。
しかし、教会に属する人々は存在しています。暫定的であっても、礼拝説教はオンラインや文書を使って信徒に届けられるなど、礼拝はできませんが信仰共同体としての教会は存在しているのです。
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さて、このような状況に直面しますと、集まって活動することを中核的な業としてきた教会は、あらためて「教会とは何か」「集会とは何か」という、エクレーシア(主によって召された人々)の本質、つまり、信仰共同体の本来的な在り方を再考することになったと言ってよいでしょう。
端的に言えば、集まることができなくなって、あらためて教会というところは、ただ集会をしていればいいのでなく、目に見えなくても互いに霊的に繋がる共同体でなくてはならない、という認識を新たにしたのではないでしょうか。
私はこのたびのコロナウイルス禍により、教会員や関係者に会う機会が奪われましたが、教会員名簿を見て祈り、また電話やメールを通してコミュニケーションを図る頻度は増えるなど、牧会配慮は以前より深まり、「共同体感覚」は強くなったように感じています。
合わせて、このような状況の中で、ヘンリ・ナウエンが語った「不在」(アブセンス)によるミニストリーが思い起こされました。
通常は人に会い、語り、そこに「存在」(プレゼンス)することが求められるのが牧師ですが、「不在」による非言語的な関係の中で、相互の配慮やより深い祈りの世界を認識することになりました。
コロナ問題は試練ですが、教会の在り方や牧会の本質をも振り返る契機となったのです。いま願うことは単なる集会再開ではなく、真の共同体形成に向かうことなのです。