信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第8回 「ありのまま神学」②~神様の側から見た「ありのまま」~

中村穣 (なかむら・じょう)

2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。
2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。
現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。

 

前回から「ありのまま神学」というお話を三回にわけてさせていただいています。今回は二回目として、“神様の側から見た「ありのまま」”についてお話しします。

イエス様は私たちをありのままで愛してくださいます。しかし、実はありのままで居続けることが苦しいことを知っていますか? もし、ありのままでよかったと思い続けるなら、あなたは自分中心の思いの中にいて、いつしかイエス様が見えなくなってしまうかもしれません。

イエス様の十字架の前に私たちが身を置くとき、混沌としたそのままの姿で十字架の愛を受け取るのは、実は苦しいことです。というのも、この自分が主の救いに値するかどうかと考えたら苦しいですよね。たくさん献金したり、奉仕をしたりしているほうが、素直にイエス様の愛を受け取れるかもしれません。何かをすることで自分の価値を高めてから主の前に行く。しかし、イエス様はそうしなくていいと言われます。ありのままの姿で来なさい、と。

ありのままで主のもとに行くことは、確かにつらい一面もあると思います。なぜなら、自分の罪深さを見て、イエス様の愛を受けるに値しないと思っているときに、その愛を受け取らなければならないのですから。どんなにへりくだっても、「イエス様。私なんかのために死ななくてもいいのに」と思ってしまいます。しかし、それは悪魔のささやきです。私たちは、自力で自分の罪を見ることはできません。自分の罪を見ているということは、神様が昨日よりも今日、私たちを近くに呼んでくださっている証拠です。

イエス様は神であられることに固執せず、ご自分を無にして私たちのもとに来てくださったお方です。ご自分を顧みず、私たちのもとに飛び込んで来てくださるというイエス様の愛と信仰が、「ケノーシス」(無にして)というギリシア語で表されています。
私たちが自分の罪を見るとき、イエス様はこうおっしゃいます。「ここからは、わたしがあなたの代わりにこの道を行くから、自分を責めないで、わたしを信じて、こっちに来なさい」と。イエス様はへりくだり、死に至る十字架の道を歩んでくださいました。私たちは勇気を出して、この大きすぎる愛を、罪赦された罪人として受け取るのです。

それは、あなたが立派なクリスチャンとして完成する道とは真逆の道です。自分が砕かれ、崩壊することで、罪赦された罪人としての私が、父なる神と子なるイエス様の信頼関係の愛のうちに迎え入れられることを体験する道です。この体験をするとき初めて、私たちはありのままで主の前に進み出ることができます。ありのままの自分が主の愛のうちに導かれるときには、私たちは自分の中に頼るものを持とうとせず、自らを空にする必要があります。それは、すべてを神様から受け取るためです。

「ありのままでいいのではなく、ありのままを主に委ねるのです。」
ユダヤ人哲学者のレヴィナスは、大学の教授として正義を講義し、神様の愛を説いていました。しかし、ホロコーストを体験し、人間は絶望の境地を体験すると驚くほど簡単に自己中心になることを身をもって経験します。自分の中にあった生きる指針もすべてなくなってしまったのです。

家族と親戚のほとんどを失い、もう死を待ち望むようになった彼はある日、神と出会います。それは、自分は死を望んでいるのに明日が来る、という体験でした。自分の意思とは関係なく、いのちが向こうからやって来るということを通して、「私は生かされている」ことを確信し、神様に希望を見出したのです。レヴィナスは自己について、「待つ存在」という意味の「イリヤ」という言葉で表しました。まさしく自己を受けとって生きる。すべてを主に委ねて生きる人生を表しました。また「義」を「自分の正しさ」と定義せずに、十字架に架かってくださったイエス様のように、他者の苦しみを背負い、それにより自分が消耗して解体される責任を負うことと定義したのです。レヴィナスは自己が崩壊した経験によって、自分の内側に愛も正義も希望もないことに気づきました。しかしその暗闇で、暗闇を照らす一点の光であるイエス様と出会うのです。

私たちもこの暗闇を通して、救い主であられるイエス様と出会います。たとえ誇れるものを何一つ持っていないとしても、イエス様はあなたを責めたりされません。イエス様は、何を持っているかではなく、「どれだけわたしを信頼しているか」と聞かれます。そのときに、“私たちが誇る何か”を手渡すのではなく、何もない私をへりくだる「ケノーシスの信仰」によって、“私のすべて(ありのまま)”を主に委ねましょう。そこで初めて、自分が生かされていることを感謝する信仰へと変えられていくのです。