けっこうフツーです 筋ジスのボクが見た景色 第7回 自立生活とキリスト教

黒田良孝
(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。

大学を卒業して社会に出るときに経験した困難と挫折は、いくつかの出会いに導かれて希望へと変わりました。自立生活センターの活動に参加することで一定の方向性が決まり、精神的にも安定したのです。

「自立生活運動」と「自立生活センター」について説明します。米国で始まった「自立生活運動」は、障害者を「一方的にサービスを受ける存在」ではなく「サービスを主体的に自らの意志で選択する消費者」と定義することで、障害者の発言権を強める役割を担いました。
さらに、自立を「リハビリ等を通じて身の回りのことを他者の力を借りずにできる状態」から「自らの意志で決定して選択できること」と捉え直すことで、障害者の存在を肯定します。
そうすることで、重度障害者も自己の意志を伝えられれば自立が可能になります。その理念を形にする組織が「自立生活センター」です。障害者の決定と選択を保障するために権利擁護活動をしたり、社会経験がない障害者に生活のアドバイスをしたりします。このアメリカ発の「自立生活センター」に範を取り、日本でも各地に自立生活センターが設立されたのです。
自立生活に欠かせないのが介助者(アテンダント)です。自立生活センター特有の介護を訓練されたヘルパーです。障害者の意志を実現するために手足の代わりに動いてくれます。自立生活センターの介助者ではない一般的なヘルパーは、関わる障害者も多様で、ケアについて自発的な働きかけが求められますが、介助者の場合は利用者の意志を尊重することが最重要とされています。そしてケアを受ける側は、利用者だけでなく雇用主として振る舞うことが求められます。
もちろんこれは理想で、この「アメリカ式」がそのまま適用されるわけではありませんが……。少々過激な考え方ですが、「障害者は専門家が決めたサービスを黙って受ければよい」という既成概念を打破するには必要なことでした。
この考え方を元に、施設や病院を出て地域で暮らす障害者が増えていきました。彼らの介助を担ったのは初期にはボランティアでしたが、次第に制度が整い、職業ヘルパーが関わるようになりました。この障害者の暮らしは映画『こんな夜更けにバナナかよ』にも描かれています。私が大学を卒業する頃には、先人たちの交渉が実を結び、都市部を中心にヘルパーが一日二十四時間派遣される自治体が増えていき、障害者の生活は安定しました。
私もそうした介護制度の恩恵を受けて、自立生活を営み地域社会に踏みとどまることができました。そうでなければ、アパート暮らし、外出や旅行、恋愛、仕事など普通の大人が享受する自由は得られなかったでしょう。
日々の生活は忙しく、とても刺激的でした。親からの束縛もなくなり、やりたいことはほとんど実現できる環境にあったので自信がつきました。

そして初めこそ誰もが手に入れられるわけではない生活に感謝していましたが、次第に自信が傲慢に変化しました。
実家にいた頃は毎週日曜礼拝に出席していましたが、自立してからは交通手段のせいにしたり、さまざまな理由をもち出したりして、教会に行くことは全くなくなりました。当時の所属教会の牧師は私を気にかけてくださり、足繁く通っていただきましたが、心はなかなかキリスト教に向きませんでした。
アメリカ式の「自立」に触れて自信を深めるとともに、自分中心主義の独善に陥っていたのだと思います。さらに、私の支援をしてくれるヘルパーに対しても感謝の気持ちが薄れていたような気がします。雇用主として振る舞うということは、命令に従わせることではないと頭ではわかっていましたが、思いやりが欠けていたと思います。
自立生活後半は呼吸が弱り、食事もあまり喉を通らずやせ衰え、死が遠くないことを感じていたのにもかかわらず、聖書を開くことも祈ることも忘れていました。
しかし、神様はそんな私にもチャンスを与え、招いてくださったのです。聖書の放蕩息子の父親のように。