『歎異抄』と福音 第二十回 パスカルと親鸞と三木清

大和昌平 東京基督教大学教授

ロングセラー『人生論ノート』の著者で親鸞に傾倒した哲学者三木清(一八九七~一九四五)に目を向けてみたい。兵庫県の真宗の家に生まれた三木は高校時代に西田幾多郎(一八七〇~一九四五)の『善の研究』に感激し、京都帝大に進んで西田の下で哲学研究に手を染める。洋行を果たし研究を深めて帰国した後は、右に左にと時代思潮に翻弄されるような道を歩んだ。戦争を拡大する国家のイデオローグとして活躍するが、マルクス主義研究に深く関わり、思想犯として逃亡中の友人を助けたかどで検挙される。彼の悲劇は獄中で悪病をうつされ、留置されたまま敗戦のひと月後に四十八歳で命を落としたことだ。
三木は「私は元来宗教的傾向をもった人間である」(「手記」)と自任し、回想録「我が青春」には若き日に京都に向かった理由は二つあって、第一は西田教授に就くため、第二は『歎異抄』を学ぶためだったと述べている。三木がパスカルから親鸞への思いを述べた件を引く。
「もう一つは『歎異抄』であって、今も私の枕頭の書となっている。最近の禅の流行にもかかわらず、私にはやはりこの平民的な浄土真宗がありがたい。おそらく私はその信仰によって死んでゆくのではないかと思う。後年パリの下宿で― それは二十九の年のことである ―『パスカルにおける人間の研究』を書いた時分からいつも私の念頭を去らないのは、同じような方法で親鸞の宗教について書いてみることである。」(三木清「我が青春」)
三木が最初に執筆した哲学者パスカルは、十七世紀の天才肌の数学者・物理学者でもあり、死後見つかった草稿は畢生のキリスト教弁明書『パンセ』となって、今日も広く読まれている。人間の偉大さと悲惨さを語るパスカルのレトリックに心惹かれたのか、三木は多く言及をしている。
人間の偉大さだけを見ると人は傲慢になり、悲惨さだけを見ると絶望に陥る。十字架の上で人の罪のために死んだキリストの悲惨さと、贖罪者としての偉大さを人は共に見なければならない。十字架のキリストを通して人間を見る時、人は傲慢からも絶望からも解放される。三木はパスカルにおけるキリスト教の人間論に深く立ち入っている。そのようにして、いつか親鸞の宗教を書きたいと願ったというのだ。
それから二十年後、疎開先で「親鸞」を書き、検挙されたまま彼は死んだ。死後発見された草稿「親鸞」は、三木を慕う和辻哲郎(一八八九?一九六〇)が痛恨の一文を寄せ、翌一九四六年一月創刊の『展望』に掲載された。

ところで、三木清の師である西田幾多郎にも「愚禿親鸞」という短文がある。西田は禅の経験を土台として西洋哲学を学び、独自の哲学を展開した人だ。西田はこの文章の中で、親鸞が愚禿と称したことに注目している。
どんなに優れていても人間の知や徳は人間のものである。それをいったん捨てたところに、新しい生命に入ることができる。これが宗教の神髄であるという。西田は親鸞の愚禿の自覚に敬意を表して、次のように述べている。
「他力といわず、自力といわず、一切の宗教はこの愚禿の二字を味うに外ならぬのである。……『歎異抄』の中に上人が『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり』といわれたのがその極意を示したものだろう。」(西田幾多郎「愚禿親鸞」)

さて、仏教は次第に衰微するという歴史観が仏教にある。正法・像法・末法に歴史を分かち、正法五百年・像法一千年・末法一万年と数える説を親鸞は採った。正法はブッダの教え・修行・覚りがすべて存在するが、像法では教えと修行はあっても覚りはない。末法には教えだけが残り、修行する者も覚る人もいなくなるとする。人間は悪に傾いていくと考える悲観的な歴史観だ。
鎌倉時代は末法であるとの意識が社会に浸透していた。親鸞はこの末法意識を背景に自己の悪の自覚を深め、阿弥陀を仰いだ。三木は「親鸞」の中でこう述べている。
「親鸞は絶えず末法のあさましさを悲しみ、自己の罪の深さを歎いた。世の末であるという深刻な自覚が逆にいよいよ弥陀の救済を仰ぎ、その真実を信じたのである。この一点から見れば、他の諸点においては本質的な差異があるが、彼の歴史観はキリスト教における終末観に類似している。」(三木清「親鸞」)
終わりの時を意識し、罪の深さを嘆くほどに、十字架で死なれたキリストの光は輝きを増していく。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1・5)。このキリスト教の世界と親鸞の宗教に、ある種の類似性を三木は認めていた。親鸞からキリストを見ていただろう悲運の哲学者に愛惜の情を禁じ得ない。