特集 みことばに“触れる”─ディボーションの恵み 自分を豊かにするために

聖書を読んで、祈ること。日々霊の糧をいただくなかで、より深く主を知るための秘訣とは何か。

 

イムマヌエル聖宣神学院 院長 河村従彦

聖書はわかりにくい

聖書は、必ずしも「読者フレンドリー」に書かれているわけではありません。聖書全体で言いたいことの一つが表現されているにしても、それを読み取るのは簡単ではありません。
聖書は、毎日読むことが意識されて書かれているわけではなく、章や節をふったのは後代の人たちです。旧約聖書には、読むためではなく、礼拝のときに聞いたり、あるいは声を合わせて歌ったりするためのものも含まれています。
それでも通読が勧められるのは、聖書全体から聖書のメッセージを感じ取ることが大切だからです。

聖書は通して読む

通読とは読んで字のごとく「通して読む」ことです。読み方や読む量はそれぞれで決めることができます。と申し上げたところで、どうしてよいかわからないので、聖書通読表や聖書日課を使ったりします。
ところで、毎日これだけの量を読むと決めてしまうと、読むことがお勤めになってしまって、読んだことで自己満足してしまいます。読んでいる人はエラい、みたいになってしまう可能性もあります。大切なのは量ではなく、自分のペースでよいということです。「結局神さまは何を伝えたかったのだろう」ということを意識しながら、聖書全体から伝わってくる雰囲気や香りを感じ取ってみましょう。
これは時間があるときしかできませんが、一つの書を一気に「通して読む」のも通読です。そうすると、違う風景が広がったりします。実は、こちらの読み方のほうが、その書を書いた人、そしてもちろんその背後におられる神さまの伝えたいことを感じ取りやすいと思います。
このとき大切なのが文脈と流れです。たとえば一章読むにしても、流れを意識しながら、何を伝えたいのかを読み取っていきます。心にとまったみことばがあったときには、少し前後を読み返してみます。そうすることで、そのみことばの意味がより深く読み取れることがあります。

ディボーション

さてここで、自分の心に目を向けてみましょう。ディボーションはいわゆる通読のことではなく、静まる瞬間のことです。
現代社会はあまりに忙しく、かなり意識しなければ静まることなどほとんどできません。また人間の思考は過去や将来に拡散しやすく、これが生きにくさの心理的要因になっている場合もあります。
過去や将来から少し気持ちを離して、「今、この瞬間」、「ありのままの自分」に思いを集中し、素の自分に向き合ってみよう、これがディボーションです。「ああ、自分は今こういう気持ちだ」とか「こんなふうに感じているなあ」などと、今の自分の心を感じ取ってみます。
このとき聖書のみことばは、大きな役割を果たします。「このみことばに対して、自分はこういう気持ちになったなあ」とか、「なんだか心がホッとしたなあ」とか、「なんだかわからないけど、イラッときたなあ」とか、「そこでみことばを読んでいるあなた。あなたのありようはそんなでよいのですか」などなど、いきいきと自分の心に向き合っていけたらよいと思います。

読み手の心の影響

ここで一つ、厄介なことがあります。それは、読んでいるわたしたちも不完全な人間だということです。よく言われます。みことばは、読む側が勝手に取捨選択するのではなく、みことばの権威の前に自分が照らされる必要があるのではないか。たしかにそのとおりです。しかし、実際これは不可能に近いことです。自分では客観的になったつもりでも、たとえば神さまは厳しい方だと感じていれば、神さまは厳しいというみことばばかりが心にとまりますし、神さまは愛にあふれた方だと感じていれば、神さまは愛にあふれた方だというところばかりが心にとまります。なぜなのでしょうか。人間が不完全だからです。歪んでいるからです。傷ついているからです。傷ついた受け皿で聖書のみことばの読み込みをしているのです。

みことばの思いめぐらしは実は自分の経験に左右される部分が少なくなく、神さまが愛にあふれた方だという経験をしたことがあるのとそうでないのとでは、読み方も、また自分が読み取る聖書の風景もかなり違ってきます。
どうしたらよいでしょうか。みことばの意味をなるべく割り引きなく受け取るためには、自分という受け皿が変えられ続ける必要があります。静まりとしてのディボーションは正直に今の自分に向き合う作業なのですから、自分を豊かにするために、そしてみことばの恵みをより深く味わうために意味がありそうです。