私はこう読んだ―『聖書 新改訳2017』を手にして 第2回

評者
瀧浦 滋
日本キリスト改革長老教会岡本契約教会牧師、神戸神学館代表。

聖霊による息吹を読み取る

『聖書新改訳2017』がいよいよ出版され、その各教会、神学校等での使用も始まっている。翻訳作業の末席にしばらく座らせていただいた者として、気がつくところを書き残しておきたい。
この『聖書新改訳2017』の翻訳改訂の原点は、聖書が一言一言誤りのない神の言葉として与えられた書物だという、聖書の「有機的逐語十全霊感」の確信である。すなわち神さまが聖書記者をそれぞれの人となりのままお用いになり、彼の書く一言一言にご自身の言葉としての意味を誤りなくこめられ、その細かい文法的語彙的ニュアンスに至るまで、聖霊によって霊感されている「生ける神の言葉」が聖書だという、聖書の独特で特別な事実である。この確信に従い、『聖書新改訳2017』の翻訳改訂は、聖書のヘブル語ギリシャ語原典が透けて見えるような、原典に忠実な訳ということが常に意識され、踏襲されている。
この聖書の逐語霊感の確信に立ったうえで、翻訳改訂の意味を考えると、それは以下の二つのことに要約されるように思う。(1)聖書原典の一文一句、一言一言を文法的語彙的により正確に正しく深く読み取ること。(2)聖書原典を、語っている一言一言とその意味がより誤解なくわかりやすくできるだけ明快に伝わる、一貫して信頼できる日本語にすること。今回の約五十年ぶりの翻訳改訂で、この二つについての努力が時間のゆるす限り極み近くまでなされたと思う。コンピューターによる検証検索作業の支援は労力を省き貢献した。
もともとキリスト教会二千年の歴史での聖書本文や聖書言語の文法構文研究、また語彙研究などが積み重ねられてきたうえに、どの聖書翻訳作業もなされてきているので、今回そんなに根本的な大きな変化がたくさんあるわけではない。もちろん独創的に新しい解釈を勝手に翻訳として出すなどということは、忠実な翻訳を目指す限りありえない。今回の『新改訳聖書2017』の翻訳改訂についていうなら、聖書本文の意味が曖昧であった所がさらに追求されてより正確になったということは多いと思う。また訳自体が本文の意味を曖昧にしか表せていなかった所を、より正確に訳す努力はなされた。しかし何といっても、今回の改訂で見逃せないのは、日本語訳としてのより誤解なくわかりやすい表現の模索ということだと思う。
ただここでも逐語霊感の原則が生きていて、必ず原文の根拠を確認しながら慎重に日本語文の検討もなされたことは無論大切なことで、私としてはその姿勢を心から感謝している。新約聖書でいうなら、特に近代のギリシャ語文法の統語論(Syntax)研究による文章構造や、文と文との繋がり方の研究の発達に伴って、文章の繋がり方がより客観的に意識されるようになり、翻訳の際の文の並ベ方や接続詞の使い方を以前より根拠を意識してできるようになった点、例えば書簡の日本語文の繋がりがわかりやすくなったというようなことがあるのではないかと思う。このことは文章構造自体を訳し直すことになるので、今回の大幅改訂の一つの原因といえる。このこととの関連では、私としてはこの際もっと大胆に翻訳の日本語の構文を変えてもよかったのではないかと思っている点が多い。できるだけ新改訳聖書の翻訳の伝統と日本語としての流れを尊重するということから、ギリシャ語原典本来の持つリズムや強調がなお日本語に表しきれていない点は、新しい翻訳が出た直後で言いにくいことではあるが、今後の課題ではないかと考えている。
聖書翻訳は終わりのない作業で、完璧ということはありえないし、聖書のメッセージは翻訳の多少の優劣を超えて伝わる明瞭さと力をもっていることを信じているが、できることなら聖書のもつ福音の恵みの脈動が豊かに伝わり感じることができる翻訳を読みたいという祈りが常にある。翻訳が聖書に満ちて語りかけておられる御霊を消すことがないようにと思う。翻訳が聖霊の通りよき管に変わっていったら、聖書を読むことがどんなに幸せになるかと思う。
今回の『聖書新改訳2017』は、聖書の原文と比するとき、翻訳文がより理にかなったものになった点が多い。不要な代名詞など冗長なところも減って簡潔になった。また原文の強調を生かすため、多少日本語を犠牲にしても原文の流れと強調が生かされたところも多い。いろいろな語彙についても極めて慎重な検討が重ねられた。付録の地図も最新のものになり、地名人名も慎重な考慮のうえで訳された。この翻訳の日本語としての評価は当然あると思うが、根本的にはそれよりも、この翻訳から聖書原文の端々にこめられた福音メッセージの聖霊による息吹を、より正確に読み取れる訳であるかで評価すべきではないかと思う。