あたたかい生命と温かいいのち 第十三回 尊い生命との対話

福井 生
1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。

去年の秋のある日、私はバスの車窓からいくつもの鉄橋と、鉄橋を彩る美しい紅葉に見惚れていました。岩手県の盛岡から宮古へ向かう途中でした。止揚学園のことを長い間支え、励ましてくださる方が盛岡におられて、私の講演会を主催してくださったのです。私の連れ合いが宮古出身で、折角ここまで来たのだからと、その方が宮古へも足を運ぶよう勧めてくださいました。
バスはゆっくりと進み、二十五年前初めてこのバスに乗ったときのことを思い出しました。それは結婚の挨拶に伺った日でした。緊張のせいでしょうか、車窓からの景色は遠い所からやってきた私にどことなくアウェイな雰囲気を醸し出しているようでした。あれから年月が過ぎ、この景色も今では心に安らぎを与えてくれるものになっていました。東北の早い冬がもうそこまでやってきていることを、雨にうたれ秋色に染まった木々たちが優しく私に教えてくれるのでした。家々の煙突からは薪を燃やす煙が上がっていました。私は、人の心は閉ざしているときと、開いているときでは、受ける印象が違って見えるものなのだと、つくづく思いました。きっと二十五年前もこの木々や、家々は私に優しく語りかけてくれていたのでしょう。そう気づかされながら、ふと、先日いただいたお手紙に思いを馳せました。手紙は止揚学園に入園している康太さんのお母さんからでした。

康太さんは五年前、入園してきました。私が小さい頃から一緒に成長してきた知能に重い障がいをもつ仲間たちからすれば、ずっと新しい仲間です。康太さんは、どちらかというと人と関係を積み上げていくことが難しい傾向がありました。
入園してから三年ほど経ったある日、うれしそうにお母さんが話してくださったことがあります。休み中、家で康太さんと一緒にご飯を食べたとき、以前なら食べ終わって、さっさと自分の部屋に行ってしまうのに、今回はお母さんの食事が終わるまで待っていてくれたというのです。止揚学園の食事の時間はお祈りで始まり、みんなで手を合わせてごちそうさまで終わります。ある人は一人で食べることが難しいので職員が横に座り、ゆっくりと食べ物を口に運んであげます。長い時間が必要です。しかしそこには尊い生命との対話があります。その対話は康太さんも含め、そこにいるみんなを優しく包みます。止揚学園で、ゆっくりとしか食べられない人とも一緒に食事をするなかで、康太さんも自分一人ではなく、他者とともに時を過ごすことの尊さを感じてくれたのかもしれません。
それから時を経て、先日いただいたお母さんの手紙にはこんなことが書かれていました。

今回冬休み、康太が帰宅しましてびっくりしました。靴下が繕ってありました。何だかみていてウルウルしてしまいました。「靴下に穴が開いたから補充してください」と言われれば何も思わずに新しいものを持参すると思うのですが……。止揚学園で大切にしておられる「どんなものにも生命がある」ということは、「これなんだ!」と思い、これからは私も生命ということを考えながら生活していこうと思えました。

止揚学園の知能に重い障がいをもつ仲間たちは人間や自然はもちろん、普段履いている靴にも、茶碗にも、生活している建物にもすべてに心がある、生命があると思っています。だから靴を踏みながら歩いている人を見ると、「靴が痛い痛いって泣いているよ」と教えてくれます。廊下を毎朝雑巾がけし、ピカピカになると、「廊下がニコニコと笑っています」と心に温かい炎を灯してくれます。
人間も同じです。そこに優しい心がある、温かい生命があると、相手から心を注がれることで初めて生きていくことができるのです。
その職員は手にしている靴下に確かな生命の温もりを感じ、靴下の穴を縫わなければ、そこから温もりがこぼれてしまうように思ったのでしょう。温もりはこぼれることなく康太さんのお母さんに届けられました。
「すべてに生命があります」
この思いが今日も、止揚学園で活き活きと息づいていることに、私は心から神様に感謝するのです。
気がつけばバスは宮古の市街に入っていました。
心を開いたとき、すべてに生命を見いだすことができる、そう気づかせてくれた木々や、家々をもう一度思い出しました。イエス様の御言もそうなのかな、心を開いたとき、いつもそこに変わることなく優しく語られているのだと、そう考えたときにバスが到着しました。