私の信仰履歴書 最終回 主からお預かりした一生のお仕事

東京フリーメソジスト桜ヶ丘教会協力牧師

野田秀

 

八十五年余生かされてきた自分の生涯を振り返りながら、場所を超え、時をまたいで張り巡らされている神の摂理の不思議さを中心に記してまいりました。その間、数えきれない人々と出会い、さまざまな経験をいたしましたが、最後に、こういうこともあるのだと私自身も驚きを覚えた出来事を紹介いたしましょう。

教会員の一人に水知露子さんという方がありました。
かつて、神戸で小林一三氏(阪急電鉄創始者)関係の幼稚園の園長をしておられたとのことで、通りすがりに寄った、開拓間もない教会のオルガニストを務めてくださるようになりました。ただその時点では、この方の信仰がどの程度のものであるかはよく分かりませんでした。しかし、ある夜の集会で、イエス・キリストの十字架についての賛美歌を歌っているときに、突然のように心の内に聖霊の光が差し込み、彼女は劇的な変化を遂げ、変えられたのです。その後、高齢になり、眼を病みながらも白い杖を手に、一時間以上かけて、礼拝に、祈祷会に、そして早天祈祷会に熱心に通われました。「牧師を叱れるのは水知さんだけだ」と言う人もあったほどの直截な物言いは、それが単なる不満や批判ではなく、熱い祈りに裏打ちされた愛の表現でした。

教会が三十周年を迎えようとしていた頃のことです。水知さんが私に「いとこの夫が佐世保で亡くなったのですが、若い頃キリスト教にふれたことがあったので、葬儀をしていただけないでしょうか」と言ってこられました。
そこで、奥様がおられる東京の国立のお宅で葬儀をすることになり、息子さんと娘さんが打ち合わせに来られました。私が「お父上の名前は何とおっしゃいますか」と尋ねると、息子さんが「やまぐちこうしろうです」と答えました。実は、この少しばかりお侍さんのような名前を私は記憶しておりました。一年間だけ勤めた会社の同じ部屋に山口庚四郎という人がいたからです。でも、ふつうに考えれば、遠い佐世保で亡くなった山口さんが“あの山口さん”であるとは、あり得る話ではありません。それがそのときの私の思いでした。
葬儀はご自宅でご家族中心にひっそりと行われました。飾られたお写真も、高齢のせいか、あの山口さんとは少し違うようでした。しかし、葬儀を終えてしまってから、お茶のときに水知さんがあの会社の名前を口にされたのです。やはりそうだったかと「まさか、まさか」と私はびっくりするばかりでした。
その頃六十歳くらいであられたと思いますが、いつも飄々として、昼休みには碁盤を囲み、私の相手もしてくださったあの山口さん。記憶に留まっていたその方の葬儀を三十年も後に私が牧師として司式するようになるとは、それは、神のなさる不思議というほかないことでした。考えてみれば、山口さんの奥様の聖子さんと水知さんがいとこであったことも、備えられた主の導きでした。このことがきっかけとなり、奥様と娘さんが洗礼をお受けになりました。

さて、人は自分の人生を顧みて何を思うものでしょうか。
人それぞれでしょうが、私は、信仰を与えられたことによって、自分の身に起こったことには何一つ無駄がなかったと思っています。万事を益とされる主がおられ、自分のような者の人生に、いつも先回りをして備え、導き、助けてくださったからです。
だからといって、牧師でありながら、人の心を傷つけ、失望を与え、責任を十分に果たせなかったことがなかったわけではありません。相談に来た人が、私の応対に業をにやし、「よそに行ってみます」と立ち上がったときの顔が忘れられません。息子さんのことで訪ねてきたお母さんに、結局何もしてあげられなくて失望を与えた私が、自分自身に失望したこともありました。黙って忍んでくださった多くの方々に祈られて、今日まで福音のために召された者として生きてまいりました。

私は、牧師の働きを職業であると考えたことは一度もありません。これは、主からお預かりした一生のお仕事なのです。これからも失敗をするかもしれません。でも、また驚くような不思議を見せていただけるかもしれません。そんなことを考えながら、あわれみにすがりながら、もう少しだけ頑張ってみようと思っています。
「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ローマ9・16)