<紛争地レポート>武器を使った「戦争」は今、このときも続いている ■今、そこにある「戦時」~イスラエル

シュビロ・貴子
イスラエル在住ガイド

一九四八年五月十四日、イスラエルは独立を宣言しました。その喜びも束の間、翌十五日、産声をあげて間もないこの国は戦争の真っ只中にいました。第一次中東戦争です。

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そして一九八二年、レバノン戦争勃発により、私たち夫婦に大きな転機が訪れました。イスラエル国籍のユダヤ人男性と結婚した私は、最初エルサレムで生活をしていたのですが、その前の年から東京で生活し始めたところでした。そんな矢先、イスラエルから夫の兄が前線で負傷し、弟が徴兵されたと緊急連絡が入ったのです。夫はすぐに帰国し、私も一週間後にはイスラエル行きの飛行機に乗っていました。レバノン戦争を体験し、その後も情勢は揺れ動き続けています。
戦争をきっかけにイスラエルで生活していくことを決めた私は、この三十年間に第一次インティファーダ(パレスチナ人武力闘争)、湾岸戦争など度重なる戦時を経て、平和への思いが強まっていきました。この原稿を書いている最中にも、ラジオからは、イスラエル南部がガザ地区から爆撃を受けたというニュースが流れています。
このような状況のため、イスラエル国民の大部分は自分たちのいのちをかけて国を守ることは当然であり、義務であると考えています。一部の少数民族を除き、十八歳になると男子は三年間、女子は二年間の軍役を務めます。
軍役後は、予備役があります。男性は五十一歳になるまで一年に約一か月間、社会人は仕事を休み、学生は授業を休んで軍役につきます。このようなイスラエル社会では軍の存在が非常に大きく、軍役を務めたか、そこでどんな役割を果たしたかが、その後の社会生活にも影響します。軍役経験が就職の応募条件になっていたり、面接時に軍役で何をしたかが質問されることもあります。
自分たちの〝生存”を常に意識していなければならない社会とは、どんな社会でしょうか。四人の娘たちの実例を通して垣間見てほしいと思います。

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イスラエルの子どもたちは、十五歳くらいになると、会話に「軍で何をするか」という話題がでてきます。
長女はスポーツの才能が認められ、兵士の運動トレーナーと健康管理の役割を与えられ、結局三年間、軍で奉仕をしました。
二女は平和主義でしたので、軍隊を固く拒否しました。それが認められ、彼女は軍役を免除されました。軍役を拒否した子どもたちには「国への奉仕」という制度があり、最低一年間は国に奉仕します。彼女は、移民してきたばかりのエチオピア系ユダヤ人が、イスラエル社会にスムーズに入るためのプログラムを手伝いました。
三女は、社会からドロップアウトしてしまった十八歳前後の男子たちが軍役を通して社会復帰できるよう、共同生活の中でのスムーズな人間関係や秩序を教えるという役割を務めました。
四女は今、音楽専門学校で学ぶ十七歳です。日本でいうと高校二年生です。彼女は、今年中には今後の方向を自ら決定しなければなりません。
イスラエルの若者たちは、国の生存と、自分自身の生存のため、若いころから重要な責任を負っているのです。ここでは具体的には触れませんでしたが、戦闘部隊に所属している子どもたちの責任もいうまでもありません。
イスラエルでは、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた母親の多くが共通して願うことがあります。それは、「この子が大きくなるまでに、軍隊に行かなくてもいい平和な世界になっていてほしい」ということです。生存への望みは、平和への望みなのです。
イスラエルで挨拶に使われる「シャローム」という言葉は、ヘブライ語で「平和」という意味です。その願いをこめて、締めくくりたいと思います。
シャローム