高校生のためのエッセイ
永遠志向 第4回 知らない幸せ

荒井恵理也
高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)スタッフ

 「予防訴訟って知ってる?」高校生に質問をしたら「訴訟を予防するの?」という答えが返ってきました。訴訟を予防してどうするんだろう……。かみ合わない話題をふったことに猛省……。

 正式事件名「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件」に関して四百一名の都立学校教職員からなる原告団が提訴した「日の丸・君が代強制反対予防訴訟」の略称が「予防訴訟」。まあくわしいことは、『これから戦争なんてないよね?』を読んでください。

 高度情報化社会で情報が氾濫しているというけど、検索エンジンも高機能化していて、自分のほしい情報だけに囲まれやすくなりました。人間関係も気の合う人たちとだけ。興味のあることはますます理解を深めるけれど、興味のないことはまったく知らないのです。だからなのか予防訴訟も認知度が低いわけで、最近は「国歌斉唱の時って立っちゃいけないの!?」と驚いているクリスチャンの高校生を見ても驚かない、そんな自分に気づいて驚きました。

 知らないでいることはとても簡単な選択です。そしてその選択は日常生活の中で繰り返されます。知らないでいれば、「知らなかった」と言いわけにならない言いわけが、後で言えます。また、妥協もしやすいので楽です。かく言うボクもたくさんの妥協を積み重ねてきた人間です。習慣化し、修正できなくなった性質を持つ大人もたくさん知っています。でも高校生は素直です。だから、二面性をもって妥協し、永遠でない社会にうまく適応している大人のクリスチャンをよく見て、忠実に倣っています。部活や模試で礼拝を一回休んだからといって、国歌斉唱のとき起立したからといって、救いからもれるわけでもありません。それもたしかに事実だけれど、それって事実の一部分しか知らないことなんじゃないかなと思います。

 日の丸に苦しむ人たちがなぜいるのか、君が代がどのような意味で歌われてきたのか、そのような背景を知らないでいれば、近視眼的な歴史観に身をまかせて国歌斉唱で起立をしても、なんの罪悪感も感じないですむのです。これが、知らないでいることがもたらす幸せかもしれません。けれども「永遠」へは続かない幸せです。