苦難のとき、神はどこにおられるのか 試練の中でクリスチャンは、どう対処したら良いのか

秦 賢司
日本福音キリスト教会連合 夙川聖書教会 牧師
元We Love 阪神! 大震災復興ミニストリー総務

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」

(詩篇46篇1―2節)

「苦難のときにも神はおられるのか」というような言葉を聞くと私は、この質問自体が大きな錯覚から出て来ているのではないかと強く思わされる。まずこの問いは、苦難というものを、私たちが人生を生きる際の例外的なものとして扱っているように思えるからである。私たち一人一人の人生は平穏無事なことが普通であって、何か特別な事件や出来事が起こることが、異常なことと人々が思い込んでいる点にこそ、現代社会における大きな錯覚が存在するように思える。

テレビをはじめ様々な広告で、何かを買えばさらに大きな幸福が、いまある幸福の上にもっと増し加えられるように宣伝されているので、多くの人々は、自分以外の隣人はまるで何の問題もなくこの二十一世紀の文明を屈託なく楽しんで生きているように思っているのではないだろうか。隣りの芝生は青く見えるものである。そして、私たちはすぐ近くにいる隣人が、心と生活と人間関係において深刻な問題をかかえ苦しんで生きているということなど、夢にも思わない。そして、人知れず苦しんでいるのは自分だけではないかと思う。

そんなことはない。苦難は様々な形をとり、すべての人の人生にいつも伴っていると考えた方が実際的であり、また聖書的でもある。そして、主イエス・キリストは、罪の重荷に苦しむすべての人を「救い」に来て下さったのである。

ヨブ記の例にも見られるように、私たちの人生における様々な苦難は、サタンの攻撃も全部含めて、全知全能の神のみゆるしのもとに一人一人の身の上に起こっていることであるとしっかりと受け入れなければならない。これは、厳粛な聖書的事実である。罪の教えはこういうことをはっきりと語っているのではないか。

「信仰」とは信頼して神を仰ぐことである。神の言葉を聞いて、その約束を信頼して神を仰ぐ。この信仰の聖書的スタイルの中に、現代は巧妙にもう一つ別の要素を加えてきているので、本来あるべき信仰生活上の祝福を空しくしているのではないだろうか。それは、「信じやすいようにやさしくやってもらわないと、信じられません」と言って、自分が信頼して従うことよりも、信じるように促す対象に、信じる方からのほしいままの注文をつきつけているのではないかということである。

この発想が家庭のしつけにまで広がっているので、親は親であるがゆえの権威で子どもをしつけることができず、子どもの言いなりのような親になることを求められてしまっている。そのように家庭のしつけも崩壊しつつある。「お前だけには言われたくねえよ」という言葉が、際限なく広がっていっているように思える。そして、これが信仰の世界にも入り込んでいるようなのである。「ねえ、神さま。私の信じやすいように、私の思っているように、私をやさしく導いてくださいよ。でないと、もう、信じることも従うこともしてあげないから。」こう言って神に向かっているのが現代の私たちの姿といえば言いすぎだろうか。

いつの時代にも、神を信じるということは、見ることによってではなく、みことばに聞き従うことによってであった。事故、災害、病気、誤解、中傷等の苦難の時にも神信仰を持ちつづけたいと思うなら、苦難の中で祈って、神のみことばに、聖霊の導きに、しっかりと耳を澄まさなければならない。そして、苦難の暗さの中でもなお神の言葉を信じて従い続けなければならない。そうするならば、二つの変化が訪れるだろう。一つは、私たちの回りの外的な状況が時間の経過とともに思いがけない方向に変化してゆくこと。そして、もう一つは、私たちの内面が神のみこころにふさわしく変化するだろうことである。それまでは、気づきもしなっかた聖書の語りかけ、聖霊の私たちへの語りかけがこと細かに見え、ますます聞こえて来るものである。こうして、私たちはいにしえの聖徒たちが歩んだ同じ道に入れられる者とされていく。それまでは、聖人や信仰の偉人たちはどういう心境で進んで行ったのかなど、見当もつかないものだが、やがて、自分もそのようなところに向かうのかも知れないと思うほどの深い献身の思い、根深い信仰の確信があたえられるようになる。

「苦難のときにも神はおられるのか」と問ってはならない。それは誤解と自己中心に由来する懐疑の泥沼への道である。神が与える苦難のときにこそ、神は私たちのいと近くにおられ、私たちを永遠に残る神の器とする特別の恵みと祝福で覆い、導いておられる。

あなたが苦難で落ち込みそうになる時にこそ、あなたはそれが、神があなたに特別の選びと召しとを与えておられる栄光の機会であることを洞察せねばならない。その神与のときにこそ、さらに霊性を養うために祈りとみことばに心を込めて集中し、その天からの大いなる導きと神のお取り扱いとに真正面からあずかっていただきたい。

私たちの祈り求めているまことのリバイバル、信仰復興はそういうところから始まるのだと私は信じている。

 

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