特集 コロナ禍をどのように歩むのか 教会が教会らしく!

世界中で猛威をふるい、いまだ終息の兆しを見せない新型コロナウイルス感染症。「新しい生活様式」という言葉が至るところで聞かれる中、教会として、キリスト者として、私たちはどのように歩めばよいのだろうか。

日本キリスト改革派・甲子園教会 牧師/神戸改革派神学校 校長 吉田隆

●共に集まらない理由

共に礼拝に集まることができない可能性が出てきてから、何度となく頭に浮かんだのは、ヘブル人への手紙のみことばでした。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」(一〇・二五)。

 

信仰者にとっては、生活そのもの、人生そのものが礼拝(ローマ一二・一)ですから、どこにいても、どのような状況でも、たとい一人でも、神礼拝は続けられるし、続けるものです。

それでは、教会で〝集まる〟のは何のためでしょうか。ヘブル人への手紙によれば、それは互いに励まし合うという「愛」のゆえでした(一〇・二四)。
このことを、肝に銘じる必要があるのではないかと思います。今回、多くの教会が集会を休止したのは(世間の目があるからでも、皆がそうしているからでもなく!)、何より他者の命を守るため、また不安を覚える方への配慮のため、つまりは互いへの「愛」のゆえだということです。キリストの教会は、集まるのも愛のためなら、集まらないのも愛のためなのです。

だからこそ教会は、集まれない兄姉たちに礼拝と説教の恵みを届けるため、孤独や寂しさを軽減するために、みな苦心したのではないでしょうか。
実際、諸教会の実践例を伺うたびに、「よくもこんな短期間に、これだけのことをなさったなぁ」と感心せずにはおれないほどです。
それだけではありません。教会の看板やホームページを通して、教会外の方々(とりわけ医療・福祉関係者)のためにも祈りと主にある平安を届けようとした。これは、教会にしかなしえない、尊い愛のわざでした。

 

 

●「社会的な」距離?

感染予防対策の一環として「ソーシャル・ディスタンス」(社会的距離)という用語が一般に使われています。

しかし、この用語はどう考えてもおかしいと思います。気をつけなければならないのは物理的距離であって、社会的距離ではないからです。むしろ、人間社会は社会的な距離を作ってはいけない。「人がひとり(孤独)でいるのは良くない」(創世二・一八)からです。

無症状の感染者ということが言われるに及んで、誰でも感染している可能性が浮上しました。町で人とすれ違うだけで「この人は感染者かもしれない」と避けて通る。マスクをしていなかったり、店を開けていたり、子どもたちが公園で遊んでいるだけで警察に通報する〝自粛警察〟さえ登場しました。

ここに醸成されるのは、「人を見たら泥棒と思え」という他者への不信感、自分さえ助かればいいという自己中心的精神性であって、主イエスがお教えになった隣人愛とは真逆の心です。

〝善きサマリヤ人〟のたとえ(ルカ一〇・三〇~三七)の中で、傷つき倒れている人を避けて通り過ぎて行った人々は、単に物理的な距離をとっただけでしょうか。はたして社会的距離をとったまま隣人を愛することはできるのでしょうか。

緊急事態宣言が発令されてもなお、医療・福祉関係者の方々は、現場を離れることができませんでした。人の命を救うことが仕事だったからです。それでは、私たち牧師は、そしてキリスト者は、何のためにこの世に遣わされているのでしょうか。そのことを問わずにはおれませんでした。

もちろん、私たちは、神から託された命を粗末にしてはいけません。信仰の大胆さと無謀さは、別物です。また、愛は、決して強制することも一般化することもできないものです。何が正解という答えもありません。

それにもかかわらず、絶大な神の愛を受けている者として、ある状況の中で、ある現実に直面したとき、危険を冒してでも動かずにおれない。そういう心が、私たちの中には最も大切なこととしてあるのではないでしょうか。

特に混乱や多重災害の中にある時は、公的機関による支援が届かずに、取り残される人々が出てきます。私たちの周囲に、そのような人々はいないか。どうすれば助けることができるか。私たちに何ができるのか。共に考えていきましょう。私たちは、あらゆる人々との“距離”を縮めることで、「平和をつくる者」(マタイ五・九)として世に遣わされているのですから。

 

 

●教会が存在する意味

自分の家族や親しい人が感染して亡くなるのでもないかぎり、私たちの中に起こる不安や恐怖は、ほとんどマスコミやネットの情報に起因します。
関係者には申し訳ありませんが、私はマスコミの報道が一〇〇%正しいとは思っていません。事実がどのように脚色され偏向されて報道されるかを、九年前の東日本大震災の時に経験しているからです。

今回のウイルス禍にしても、専門家の間でさえ意見が分かれるのですから、素人である多くの教会員の間で判断が分かれるのは当然です。
そうであれば、私たちは、それぞれの教会の事情に応じて、よく祈り合い話し合い、皆が納得できる道を探ることが賢明でしょう。
しかし、他方で、教会が立ちもし倒れもする、神のみことばに聴く姿勢を最終的には失ってはいけないと思います。そうでなければ、教会が存在する意味はなくなるからです。

たといコロナでなくとも、簡単に「この世と調子を合わせて」(ローマ一二・二)、礼拝を自粛する教会になってしまうことを、私は恐れます。
冒頭のヘブル人への手紙のことばは、信教や集会の自由がある中で記されたことばではありません。古代ローマ帝国において、(ユダヤ教とは異なり)キリスト教の集会はそもそも非合法だったのです。それにもかかわらず、初代教会は集会をやめることをしませんでした。それは、教会が、信仰と希望と愛の共同体だからです。 

私たちのために、ご自分の血をもって天の聖所への道を開いてくださった方を大胆に信じる信仰。地上の命を超える命に生きる希望。そして、その日に至るまで互いに励まし合う愛です(ヘブル一〇・一九~二五)。

どのような中でも、教会が教会らしく歩むこと。そのための信仰と知恵を求めつつ、心を高く上げて、この状況を乗りきってまいりましょう!