自分の生と死を看取る生き方 最終回 「いのちの質」を求めて

近藤裕
サイコセラピスト、教育学博士(臨床心理)、元・百合丘キリスト教会牧師、現ライフマネジメント研究所長。西南学院大学卒。米国に留学(1957~59,1968~71年)。在米生活17年。

 著書に「自分の死に備える」(春秋社)、「スピリチュアル・ケアの生き方」(地湧社)などがあり、著書は90冊を超える。

 毎年のことですが、バレンタイン・デーが来ると、私はいつもMさんを想いだします。
 悪性の胃がんを患い、医師から余命数か月と告げられたMさんは、当時二人の子育ての真っ最中でした。Mさん夫妻の闘いが始まりました。「小さい子どもを抱えている自分が、なぜ、今?」とMさんは悩み苦しみました。「もう治らないの? あとどのくらいのいのちなの?」と不安を募らせ、情緒不安定な日々を過ごしたのです。抗がん剤の副作用で苦しむ中に、死が間近に迫っているのなら、しなければならないことがある。「いのちの質」を大事にしたいと考えたのでした。 私の著書を通してイメージ療法を知ったMさんは、発病以来ずっと休職して妻の介護や家事全般を引き受けている夫とともに、訪ねてこられました。「治るものなら、治るべく最善の努力をしたい。と同時に、まず精神的に病を克服したい」という願いを述べられ、新しい闘病生活に取り組まれたのです。
 病院での治療と並行して、イメージトレーニングに夫婦で参加しました。
 ヒーリング・ミュージックに促されて、まず心身をリラックスさせ、美しい自然の中に体を横たえている状況をイメージする。自然のいのちに支えられている状況や、自然のいのちのエネルギーを体中に吸収し、病める細胞が癒されていくイメージを描く。Mさんは、よくタンポポやの畑に横たわっているイメージを描いていました。
 余命数か月と告げられていましたが、発病してから一年半ぐらいは体調も良くなり、このまま治癒に至るかもしれないという希望を抱き始めました。
 その反面、最悪の状況にも備えていたMさんは、子どもたちや夫との時間を大切にしたのです。日曜日には家族そろって教会に足を運び、帰路には近くの川べりを散歩。夜には星空を仰ぎ、昼は子どもたちと本をともに読み、音楽に耳を傾け、語り合う時間を多く過ごしました。
 二年目に病気が再発、そして悪化。再度の入院のときには、家族との別れの悲しみよりも、子どもや夫との楽しい想い出に支えられていました。
 病状が悪化したと聞き、私が病室を訪れた翌朝、永眠、Mさんの魂は召天しました。
 この日、夜明けが間近になった頃、痛みが和らぎ、意識が明瞭になったMさんは体を起こし、大好きなモーツアルトの子守唄のオルゴールの曲を聴きながら、夫が用意した好物の紅茶をすすりました。
 子どもたちといつも唄っていた「主われを愛す」を夫とともに口ずさみ、「病者の祈り」を唱え、夫の胸の中で微笑みを浮かべながら息を引き取ったと、夫は語っていました。
 その日は、奇しくもバレンタイン・デーでした。

  亡くなる一か月前、Mさんはこんな詩を、向日葵の絵とともに書き遺しています。

 空と海のつながり きらめく光
 光を巻き込んで 足元に届ける波

 宇宙と私のつながり はてしない
 終わりない きれいなつながり

 あの日から、二十年近い月日が過ぎました。夫のYさんは、Mさんが亡くなって数年後に受洗。その何年か後に過労でを患いましたが、九死に一生を得て、闘病のかいあり、教会の皆さんに支えられ、左の手足の不自由を克服しながら、現在は社会復帰を目指しています。

 人間の命はいつの日か尽きることが定められています。これは避けられない運命です。
 ゆえに、今日死んでも悔いがないように、人生の一瞬、一瞬を自分のすべてをかけて愛し、生きる勇気を持つこと。これが、私が考え、提唱する「自分の生と死を看取る生き方」の原点です。また、他者の「生と死を看取る生き方」を支える原点でもあるのです。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」  (テモテへの手紙第二・四章七節)