時代を見る目 245 地方だからこそ見えること [2] 中央vs地方

小形真訓
日本長老教会西部中会 巡回説教者

私の最後の働きの場は、県庁所在地からローカル線で20キロのところにある海沿いの町だった。大字小字の地名から、この辺りがかつて塩田であったと分かる。退任前のある日、全線を往復してみた。線路わきの桜がほころび、麦畑が広がる中を一両だけの気動車が走る。通学時を除き乗客はまばらで、乗り遅れたら次の列車まで1時間は待たなければならない。不便といえばすこぶる不便だが、都会の住民には想像もつかないゆったりペース。
これが何ものにも代えがたい。人々は長い年月多くのものをこの生活環境とリズムから吸収してきたのだろう。あらためて大都市の慌しい分刻みの毎日を思い浮かべてしまう。

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中央とはいったい何だろう? ど真ん中、最重要部分、おおもと……どの表現も前向きで積極的である。物理的意味だけでなく言語感覚の上でも中心でありセンターであり、牽引力、マジョリティー、最有力、集中、核心、都市化、効率化……こんなイメージを積み重ねて現れるのは堂々たる「正統」だ。そして正統なるものの上に文化は成り立っているから、中央とは全体を代表するものである。
その裏返しが地方である。ローカル、分散、周辺、僻地、不便、非効率、マイノリティー、田舎、閉鎖性、依存性……パワフルで鋭利な中央に対して何とものどかで遠慮がちだ。テレビやネットによる情報の氾濫で、私たちの意識は否応なしに中央へ引き寄せられる一方、周辺に対する配慮はますます希薄になる。こうして人も資本も情報も中央偏在が進む。
早い話、TPP交渉にせよ廃棄物問題にせよ、政治のスタンスを決めるのは国あるいは大都市であるのは当然だが、地方を生き生きさせる道も提示してほしい。単なるしわよせとならないために。

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ある時代、卒業式には「身を立て名を上げ」と歌って生徒を送り出した。ふるさとを離れ都会に行けばそこには大きな可能性が広がるとの思い込みがあって、今日まで背伸びと依存が続いているかのようだ。
都市とは、とどのつまり人間の群れが作り出す乱気流の渦かもしれない。変化に惑わされて立ち位置を見失わないよう気をつけなければ。「みことばは私の足のともしび」。真実は日々の暮らしを通して示される。