時代を見る目 160 日本の宗教行事への対応(1)
初詣に込められた思いとは

勝本正實
日本聖契キリスト教団・初石聖書教会 牧師

 年末から年始にかけて、数千万人の方が神社やお寺に、初詣に出かけられます。変わり行く生活習慣の中で、変わることなく続けられている日本の風景です。日本で暮らす人の数分の一が、この時期に集団行動をとることは驚くべきことだと言えるでしょう。多くの人が過ぎ去った一年を思いつつ、新しい年に期待を持って神仏の前に立つのです。熱心な信仰心とは言えないまでも、おごそかな宗教心がそこに流れています。

 神仏に祈願するということは、はるか昔から行われていたことと推測されます。しかも今以上に真剣な祈りがささげられていたと考えられます。なぜなら生きていくことは、今よりもっと厳しい環境の中にあったからです。明日の食物の必要、伝染病からの守り、略奪への恐れ、自然の猛威など、挙げればきりがありません。そうした中で、家族だけの願いに限らず、地域の共同体全体の幸せと守りは絶対必要不可欠のものでした。自分さえ良ければとの思いは、許されることではなかった時代が長く続きました。

 しかし現代においては、地域共同体のために祈願するのではなく、自分や家族のことが中心であり、広がったとしても友達の範囲に限られた祈願が多くなっているように思われます。個人主義が根を張っているからです。そして教会においても、個人的な信仰が蔓延し、「共に生きる」ということが大変難しいと感じています。一緒に築き上げていくことを避け、必要最低限のかかわりにとどめる人が多くいます。

 教会でも新年礼拝を開くところが多くあります。それは良いことです。それによって地域の人々を招く努力が必要です。何もしなければ人々は、神社やお寺に行かれます。特別に決まった信仰を持っている人は別として、多くの人にとってはそれが教会でもよく、出席してくださる中で少しずつ慣れていくことでしょう。キリスト者にとって、一年のスタートをまず神様の前に出ることをもって、始めることは証しとなります。しかもそれは信仰共同体としての始まりのときです。この世から呼び出された者たちとしての自覚と、他の人への愛情と関心を持つことは、今の個人主義の時代に対しても、神様に対しても大切なことです。この日本においてもキリスト教においても、信仰は個人の属する共同体・連帯の中で、生きたものとなっていたのです。