新約聖書よもやま裏話 第25回 400年も!
旧約聖書と新約聖書の狭間(1)

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生 エルサレム陥落、神殿破壊、バビロン捕囚、そしてエルサレム帰還、エズラ、ネヘミヤの時代、そして旧約聖書最後の預言者マラキから、ざっと四百年経って、新約聖書に描かれている時代が到来する。

第二神殿期

 しかし、一口に四百年と言っても、実に多くのことがあった! 大祭司を頂点としてユダヤ民族独自の自治体制が確立したことから始まり、ユダヤ教の会堂での礼拝、メシヤ待望、メシヤ運動が始まり、パリサイ派、サドカイ派、熱心党、エッセネ派などユダヤ教各派が成立したのも、この時期であった。

 旧約聖書にすでに見られる萌芽が芽を出し、花を開いて実を実らせたのが、いわゆる中間時代のことである。旧約聖書と新約聖書との狭間の時代ということで、従来は中間時代と称された。昨今は、新約聖書を聖書と認めないユダヤ教徒に配慮して第二神殿期などと呼ぶ。

 第二神殿とは、ソロモン時代の神殿に対して、バビロン捕囚から帰還した民が再建した神殿を指す。紀元七〇年ローマ軍がエルサレムに攻め込み、陥落した際、この再建された神殿も破壊された。新約旧約中間時代と第二神殿期とは微妙に期間にズレがあるが、ほぼ同時期である。

 この四百年間の第二神殿期には実に多種多様なことがユダヤ民族の歴史に起こったが、歴史の潮流として特筆すべき第一は、ヘレニズムの襲来と受容であろう。「受容」には抵抗も含められる。

時代の流れの中で

 マケドニヤのアレクサンドロス大王が、マケドニヤとギリシャの連合軍を率いて東方遠征を敢行してペルシャ帝国を滅ぼした。こうしてかつてのペルシャ戦争の報復を果たした。

 そうこうするうちに、東は現在のパキスタンから南はエジプト、パレスチナ、現在のトルコ、ギリシャ、マケドニヤにおよぶ一大帝国が築かれた。紀元前四世紀のことである。あっという間に誕生した帝国は、大王の死と共に瞬く間に分裂し、エジプトのプトレマイオス王朝、シリヤのセレウコス王朝など将軍たちの間で分割された。

被支配民族として

 パレスチナは当初エジプトの支配下に置かれた。比較的平穏な時期で、ユダヤ人の自治体制が確立した。被支配民族ではあったが、大祭司はユダヤ民族の代表者とされ、大祭司を頂点とするピラミッド型社会が構築された。

 ところが、セレウコス朝シリヤは虎視眈々とパレスチナを狙っていた。というよりもむしろエジプトのナイル川流域の肥沃な大地を奪う機会をうかがっていた。古代では、食料の調達は国家の安全保障にかかわった。北は海、南と西が砂漠のエジプトにとってパレスチナは地理的弱点だった。北東部からの侵入経路となるからだ。そのため、古来度々戦場と化した。紀元前二〇〇年、エジプトは戦いに敗れ、パレスチナはシリヤの支配下に移行した。

 その後、紀元前一七五年悪名高いアンティオコス・エピファネスがシリヤの王位に即いた。相次ぐ戦争の結果、シリヤの国庫は底をつき、国は疲弊していた。

 ユダヤ人には重税を課し、その上、ユダヤ教弾圧が始まった。割礼が禁じられ、祭壇で豚をいけにえとして捧げることが強要された。高い税金だけであれば、ユダヤの民は耐えたかもしれないが、宗教感情を逆なでされたユダヤ人たちは方々で蜂起した。

ユダヤ民族の反乱

 そのシリヤに対する反乱の指導的地位を確立したのがモディンの祭司マッティヤ一族であった。後のハスモン家であるが、金槌を意味するマカベヤというあだなが付けられた。マカベヤ一族を中心にしてユダヤ人はゲリラ戦法でシリヤの正規軍に立ち向かった。ユダヤ教信仰に裏打ちされた愛国心とゲリラ戦法があれば、訓練され整えられた正規軍も勝ち目はなかった(歴史とは、どうも繰り返される……)。

 讃美歌一三〇番、どの競技大会の表彰式でも必ず流れされる曲なので、聴けば「あぁあぁ~、あの曲!」とだれもが知っているはず。『メサイヤ』の作曲者ヘンデル作曲の『ユダ・マカベヤの勝利』である。

 ユダ・マカベヤはマッティヤの息子のひとりで、エルサレムと神殿をシリヤから奪い返したときの指導者である。異教徒の支配者が汚した神殿を再奉献し(紀元前一六四年)、これを記念して始められたのが「宮きよめの祭り」(ハヌカ)である。

 ユダ・マカベヤは軍事的才覚だけではなく、政治手腕があり、外交交渉にも長けていた。西方から台頭して急速に東方に勢力を拡大してきたローマの底力を早々と見抜いた。そして、ローマの元老院にユダヤのハスモン家を公認してもらうことに成功した。シモンの下でユダヤ人は紀元前一四二年には半独立を獲得した。こうして徐々に独立国家ユダヤ、ハスモン王朝誕生へ道備えがなされた。