折々の言 7 ハガルの養い

工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

 一、 読者からのお手紙

 読者というものは、ありがたいものである。
 ここ数年、毎年クリスマスの頃になると決まって美しい文字で書かれたクリスマスカードとともに数冊の本を注文してこられる方がいる。若い主婦の方にちがいないが、お小遣いをためて、この人はと思う友人に、私の著書をプレゼントしているらしい。いずれも出版社の都合でもう入手できない類のものである。
 ところで今年のお手紙は、次のように結ばれてあった。

――最後になりましたが、先生の本に触れるたびに、創世記一六章一三節のハガルの言葉を思い出します。「エル・ロイ。」ひとりひとりを愛し、見てくださる主にたましいの安らぎを覚えて、これからも迷いつつも、歩ませていただきたいと切に願います。

 私がおもしろいと思ったのは、この人は私とのつながりやその本を「ハガルの養い」のようにとらえていたということであった。そう言われてみればたしかにこうした意味のことを言われた方々が、これまで時々おられたような気がする。
 たとえば私は四月号で、関西に戻ることになったとき、以前教えていた大学の公開講座に出席していた社会人の有志が、継続的な講義を願って「ナザレの会」(東京 吉祥寺)、「三鷹の会」を自発的に結成したことを述べたが、実はこうした学びの会は他にもある。「P・トゥルニエを読む会」(東京 お茶の水)、「成田の会」(千葉)、「べテルの会」(神戸)、「横浜の会」(神奈川)、「取手の会」(茨城)、「伊那の会」(長野)、そして若い牧会者や神学生を対象とした「牧会を学ぶ会」は、北海道、仙台、神戸、九州へと広がっている。ところで東京を去るに際して、これらの会のいくつかを整理しようと打診した折り、困ったことは「この会があるので一年間が支えられているのです」という声が少なくなかったということである。とりわけ「伊那の会」は、信州聖会から発展したものだが、断りきれずに、もう八年も続いている。
 つまりこの会の参加者の多くはきちんとした教会生活を送っていながらもなお、満たされないものや人生の折々、年代の節々に生じる心の課題を、この学びに期待しているらしいのである。
 障害児をもつ一人の母親は、私の好みを知って、年末にわざわざ産地から「紅茶」を取り寄せてくださり、「この一年間、この会で本当に支えられました」と書いてくださった。よほどうれしかったのだろう。

 二、 ハガルの養い

 ハガルというのは、言うまでもなく創世記に登場する一人の女性である。アブラムの妻サライが、子を産まなかったので、彼女の勧めによってアブラムの許に入るのだが、やがてサライに苦しめられ、荒野に追いやられるのである。しかし主の使いは、シュルへの道にある泉のほとりで彼女に現れ、声をかけられた。
 私はこの話を、ハガルのような人物、たとえて言えば、教会につながっていながら、その心は「荒野にある人」、あるいは、一度はそこに籍を置きながら、何らかの都合でそこを出た人、追い出された人々にも、主の御声や養いが届くというように理解している。
 というのは、『信仰による人間疎外』(いのちのことば社)という本の出版以来、教会に行きたくても行けなくなってしまった人、この人の感性や能力ではとても今の教会にはなじめないだろうなと思われる人々がけっこう多くいる現実に出会ってきたからである。
 
 三、軽井沢のセミナーのこと

「神と人、信仰を語る」と題して一九九〇年から十年間にわたって続けられているこのセミナーは、昨年とりあえず終了となったのであるが、このセミナーの記念誌に次のようなことを書いた人がいる。

 軽井沢のセミナーがなかったら、工藤先生や藤木先生との出会いがなかったら、私は現在どうなっていただろうかと自問することが、今なお往々にしてある。
 当時、私は中年期の胸突き八丁にあり、苦境に立っていた。神は好きだし、正しく生きたいと思う一方で、雨あられのように降り注がれる聖書の言葉も、またイエスの十字架も消化しきれないでいた(全人類への施しはともかくとして、それが私に何の関わりがあるのだろうか)。そうしたこともあって、このセミナーで得たり、拾ったりした言葉や交わりが「これなら私にもとりいれられる」と干天の慈雨のごとく心に沁み入ってきたし、またこの種のものが私自身の現実の生活と人生の歩みとを紡ぐ糸のような役割を果たすようになったことを今、思い起こす。
             (「こもれび」 第二号 二六頁)

 思うに人の心は、真に納得ができる信仰や思想に触れたいと思っているのであろうし、自分の心に誠実に向き合って生きようとする人ほど、必死にその空虚感を充たそうとしているにちがいない。とすれば「ハガルの養い」は、この読者に限らず一人一人の切実な心の課題のようにも思われてくる。
 人は誰かに、また何かにつながっていなければ、発展を遂げられない存在だからである。