時代を見る目 141 子どもがわからない(2) アピールの真の意味

佐竹真次
山形県立保健医療大学教授 発達心理学

 数年前のことである。ある市の成人式で、市長に向かってクラッカーを鳴らした若者たちが逮捕された。「子どもの気持ちがわからない」と言われそうな事件であるが、取り調べで彼らは「目立ちたかった」「注目されたかった」というようなことを言っていたという。その後、各地の成人式で似たような事件が連鎖反応的に起こるようになった。特別な才能や能力があれば、目立ったり注目されたりもしやすいのかもしれないが、そういったものがない場合には、「他人に迷惑をかけてでも目立とう」と考えてしまうのかもしれない。

 一方、ある中学校でひとりの生徒が暴力をふるい、ほかの生徒や教師を振り回していた。その生徒にとっては他者のたじろぐ様子がおもしろいようだった。彼の家庭は崩壊していた。しかし、よく調べてみると、彼の背後には彼の暴力行動を賞賛する非行少年のグループがいることがわかった。親も教師たちも根気よく彼と話し合いを続けた。トラブルは長く続いたが、彼は徐々に非行少年たちから離れていき、生活に落ち着きを取り戻していった。

 十七歳の連続犯罪が起きた直後、わが子の通っていた中学校と高校のPTA研修会の出席率が急増したことがあった。毎日の子育てから手を抜いているのではと不安になり、参考となる情報や助言を求めてきた保護者も少なくないと思われた。愛情の手抜き環境の中で、子どもが極度のさみしさや孤独感、被虐待体験などをもつと、行動でアピールしてくることがある。そのような場合は、表出されることばを傾聴し、行動を観察しながらアピールの真の意味を探る必要がある。手間のかかる作業である。しかし、アピールの真の意味がわかると、それに対して適切な対応を選択し、実行することができるようになる。

 子どもたちのアピールの真の意味は、「自分の存在を認めてほしい」というものかもしれない。

 相手の存在を認めるには、ある一定の時間をともに過ごしてみることが必要である。聖書には「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。(中略)主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである」(詩篇一三三・一~三)とある。実に単純なことのようではあるが、人間がしあわせに生きるためには、それがどれだけ重要なことであるかを物語っている。