折々の言 18 落ち込み スランプとのつきあい

花
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

一、友人からの手紙

 聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(ピリピ4章)と伝えるが、現実の私たちは、失意や失望、落ち込みに見舞われることが多く、とても「いつも喜び、すべてのことに感謝する」ことなどおぼつかないのが実情ではないかと思う。

 しかし、最近の私は、私どもには時折の失望や失意、落ち込みが必要であり、それが何かの気づき、新しい出発といった創造的な働きに結びついているのではないかと思うようになってきた。

 次の記事は、私の親しい友人の一人が送ってくれたものの一つである。(こうした何人かの友人を持てたことを、光栄に思っている。こうした人々の励ましにより、自分の狭い思索のすそ野が少しずつ広がっていくからである。)

 「詩を書くことがはっきり自分の習慣になってからでも、もう50年以上になるが、詩との関係がいつも順調だったわけではない。世にいわゆるスランプというやつが、2度あった。1度目は高校1年の冬から大学3年の夏まで。2度目は27歳から42歳まで。

 2度目は、詩の世界でも多少とも知られるようになってからのスランプなので、はるかに辛かった。外見にはいちおう旺盛に書きながら、自分では書くことをやめようと思ったことが何度もある。それでもやめなかったのは、やめても他にできそうなもののないこと、また同年配の仲間に負けたくなかったこと、いずれにしても、実に形而下的な問題でやめられなかった。

(しかし)スランプの終わりは思いがけない形で訪れた……中略……。ほかでもない、長いあいだ悩み続けたそのことが、知らないうちに私のうちで詩を育てていたのだ、といまでは確信をもって言える。そして、自分がスランプで悩んでいた長い期間を、自分の人生の中で大切な時期だったのだと肯定する……」

 世阿弥は(風姿花伝の終わりに近く)「去年こぞ盛りあらば、今年こしは、花なかるべき事を知るべし。いかにすれども能にもよき時あれば、必ず悪しき事またあるべし」と言い、時に女時めどき(つまり運のつかない時、あるいは調子の出ない時)の対応の仕方の大切さを言っている。……世阿弥は、その女時に抵抗するでもなく逃れるでもなく、じっくりと付き合った結果として、「井筒ゐづつ」や「とほる」のような玲瓏れいろうたる能が生まれたのではないだろうか」(二十一世紀鏡、詩人高橋陸郎 西日本新聞より引用)

二、男時と女時

 この詩人は、右上がりの物事が順調に進むとき(男時)のみならず、調子の出ないとき(女時)の大切さを、ご自分の体験から述べられたと思うのだが、私たちの中にも、そのときには気づかなくても、振り返ったとき、スランプなどで悩んでいた長い期間が、自分の人生の中で、何か大切なものをはぐくみ育てていた意味ある時期であったということに気づくことがあるのではないだろうか。

 私は、今各地で年1、2回もたれるようになった勉強会・感話会は、私の長年の願いであり、その発端は「打ち上げ花火的」にもたれたり、プログラム化された教会行事の一環としての講演会に対する素朴な疑問、空しさであったことと、以前、述べたことがある。これらのこともまたよく考えると、今述べたことと関連のあることのように思われる。つまり「長い間の失望や失意が、知らないうちに一つの形・姿を取るに至った」という意味である。これがしばしば私が申し上げた、悩み続けること、こだわり続けることの大切さのゆえんである。

 そして、この新聞記事を手にした頃、同じような話を、ラジオで耳にした。

 2歳半からヴァイオリンを弾き始めたという天才ヴァイオリニストの話である。学生時代から数々の賞をもらい、まっしぐらに栄光の座を走っていた彼女に、20歳を過ぎて、過酷なスランプのときがめぐってきたという。

 何を弾いてもピンとこない。自分が自分である気がしない。一種の離人体験の様な体験であったという。しかし彼女はヴァイオリンを弾き続けた。

 苦節7年を経て、たまたま、ある演奏会で昔の感触が戻ってきた……。

 そして、その人もまた、順調だったときにもまして、その体験があってこそ今の自分があると、その意味を強調されていた。

三、苦悩の必要

 このように見てみると、落ち込みやスランプは、形こそ違え、私たちの人生には不可避につきまとっており、またそれは大いに必要なものではないかと考えてみたいのである。

 P・トゥルニエの『人生の四季』(ヨルダン社)の中に、おもしろい一つの指摘がある。

 この本の中でトゥルニエは、「人生の春」すなわち青年期に成長のために必要な「四つの要素」を挙げているのだが、「愛」「同化」「順応」と並んで彼は「苦悩」を挙げ、「苦悩もまた成長に役立ち得るのです。現在、成長のある段階にとどまっているように見える人々で、もうあと苦悩さえ体験すればさらに先に進むことができるだろうと思われるような人々を、私たちのうちの何人かは多分知っていることでしょう」と述べている。(59頁)。つまり彼は「苦悩が人を先に進める」点に注目しているのである。そして、シュザンヌ・フーシェ(フランスに多くの肢体不自由者・病者のための施設を作った人)の例を挙げる。

 16歳以降の全生涯を病気と苦悩と窮乏のうちに送りながら、人間愛の驚異的な仕事をなし終えたこの女性は、「苦悩という学校こそ、人生の(最良の)学校なのではないでしょうか?」と述べたという(同書60頁)。

 実際旧約聖書の中でエレミヤは、「人が若い日にくびきを負うことはよいことである」と述べている。

 このように見ていくと、苦悩や「落ち込み」もまた十分意味を持っているのではないかという気がしてくる。

 もちろんそれ程のレベルでなくても、私たちはつい「調子に乗る」「思い上がり」のレベルを超えて、いつの間にか「うぬぼれてしまう」弱さを持っているし、また、「失敗」しないと自分の姿が見えてこない弱さを持っている。

 つまり失望や失意の体験は人間に「慎み」や限界をわきまえさせるために、なくてはならないものであり、私たちの生には、失望や失意によってその生が整えられ、それらによってより深い生が営まれる側面を持っているということなのだろう。

 このことは人間は、悲しみや苦しみがなくなったら、自分の分をわきまえず、何をしでかすか分からない危険な存在であることを考えたら明らかなことである。

 それ程身を低くすることはむずかしく人間にとって高慢ほど手に負えないものはないのである。

 それゆえ、後の日にそれらすべてのことはやはり感謝に足ることが分かっていく構造になっているのだろう。