折々の言 10 小さな夢の実現

工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

 一、 時間の持つ豊かさ

 年明けの一月七日、あるご家庭の相談事があり、北海道に向かった折りのことである。

 その日の午後までにそこに到着すればよいということもあって、昼頃の飛行機に乗った。幸い好天で、穏やかな日差しがバスの中にも、モノレールの中にもいっぱいに満ち、いかにも「新春」と呼ぶにふさわしい一年のスタートであった。

 バスの中で本を開き、飛行機内で新聞を広げていると、ふと「自由に動ける時間があるということは、何とよいことだろうか」と思った。それと同時に何かやっと二十年来の夢が実現に近づいたような気になった。「出ていく医療」のことである。

 というのは、十八年前私は、『魂のカルテ』(いのちのことば社刊)に「囲いの外にいる羊」(ヨハネ一〇章)と題して次のような記事を書いているからである。(一四〇頁)

 保健所の相談員をしていますと、「医療の手を一番必要としている人たちが、医療から一番遠い所にいる」ということに気づかせられることがよくあります。(中略)

 また、五、六年前、福祉のケースワーカーからの紹介で、保健婦といっしょにある家族を訪問したことがありました。掘っ建て小屋みたいなその家に足を踏み入れてみて、一瞬立ち尽くしてしまったのですが、もう二、三年も掃除をしたことがないのか、部屋は乱雑で足の踏み場もなく、夏の暑さでムンムンと悪臭が漂っていました。

 小さな裸電球の向こうをよく見ると、だれかがブツブツひとり言を言っているのです。髪は汚れ、つめも伸び放題です。二、三話しかけてみたのですが、とりつくしまがないので保健婦としばらく善後策を相談していますと、学校から帰って来た子供たちは、カバンを置くとどこかへ行ってしまいました。どうやら買食いをして毎日しのいでいるらしいのです。

 ケースワーカーの心配は、母親がこのままでは、子供たちにも影響が出るので、早く何とかしなければということでしたが、肝心の夫はなかなか来所してくれず、私たちが出向くこと三度目、しかも夜九時ごろまで待ってやっと会うことができました。

 ところが、この夫は、「ほっといてくれ」と繰り返すばかりで、最後には「福祉から少しばかりの金をもらっているために、訪問されるのであれば、その金はいらない」と断ってしまったのです。その後、私たちは入院の同意を取りつけるために、方々手を回して兄弟、親族を探したのですが見つからず、私はそのうちに渡米しましたので、その後の消息は不明になってしまいました。

 病気というのは、えてしてこういう状況の中でこそ、よく起こるものです。すなわち、本人も周囲も頼りにならないという中で……。したがって、本人が病院に行こうと思うことができ、周囲にも協力が期待できること自体、治療は半ば成功したと言ってもよいようにさえ思われるのです。こうした体験から思うことは、多額の費用を払い、見守りの中に療養生活を送ることができる人々というのは、恵まれたごく一部の人たちではないだろうかという気さえします。

 二、心を痛め続ける中に実現する

 これは、あくまでも私の個人的な感想であるが、人がもし本当に何か心を痛めることがあり、それにこだわり続ければ、あることがらというのは、地下水のようにその人の心の中で生き続け、あるとき形を変え、実現の方向に向かうのではないかということである。

 つまりこのエピソードに関して言えば、私はかつて十五年間医療に携わっていたとはいえ、それに関われば関わるほど病院に来れる人を診る医療に限界を感じ、いつか病院に来れない人に届かなければ自分の医療が、その本質を突いていないような空しさをいつも感じていたのである。

 そして、こうした一因もまた私に病院勤めをやめさせることになり、大学に籍を置かしめ、自由に働ける「時間」を得ることによってこれまでずいぶん多くの方々、ご家庭を訪問してきたと思う。そしてそこに発見したのは、世間体をはばかってか病院に来れない社会的に高い立場の方々もまた等しく、口外できない多くの個人的、家庭的問題を抱えて苦しんでいるという現実であった。今の時代の心の闇は、想像以上に広く、深刻なものらしいという実感であった。つまり「医療以前」の問題が多すぎるのである。それゆえ私たち医療者のできることなど、この複雑な世界のほんの一端に過ぎないと思うに至った。

 ともあれ私は今、比較的自由に時間をやりくりできる道を選ぶことによって、こうしたことがらの他に、これまで述べてきたような様々な学びのグループ、各地の牧会者の集まりなど「心の友」と呼ぶべき人々との交流にいくぶんか恵まれることになったのである。

 一つの道の実現について、医学と宗教の統合に人生の半ばを費やしたというP・トゥルニエは、神の導きをはっきりと見分けることがいかに困難なものなのか、その難しさを述べたあと、「辛抱」の大切さを強調している。若いときはいとも容易に「これが主のお導き」などと思い込みやすいが、神のお導きなどというものは、長い長い歳月を経て、ようやく分かってくるものなのかもしれない。(『人生を変えるもの』山口 實訳 ヨルダン社 二二頁)