“信教の自由”がなくなるとき 教会が自由を手放すとき(前半)

上中栄
日本ホーリネス教団 鵠沼教会牧師

 日本から「信教の自由」はなくならないでしょう。日本が民主主義を標榜する法治国家である以上、少なくとも法制度上「信教の自由」がなくなるとは考えにくいことです。それでも、本特集のような危惧が生じるのはなぜでしょう。

一、戦時下の「巧みな」信教の自由

[1]「巧みな」制度
 今日、「信教の自由」がなくなると危惧されるのは、憲法改正論議や「日の丸・君が代」をめぐる動向に、戦前への回帰に似たものを感じるからでしょう。しかし、その戦前にも、まがりなりにも「信教の自由」はありました。大日本帝国憲法(以下、旧憲法と略)第二八条で保障されていたのです。それなのに、戦時下の教会に実質的な自由はありませんでした。なぜでしょうか。

 まず、旧憲法の発布は一八八九年、元号で言えば明治の二二年です。つまり、明治維新以来、天皇を中心とし、国家神道を精神的基盤としてなされた国づくりは、かなり進んでいたということです。国家神道は政府内でもすでに別格とされており、教派神道や仏教、キリスト教などとは役所の管轄も違っていました。

 ですから、旧憲法は国家神道別格を「追認」するようなものであり、そこで保障された「信教の自由」は、天皇の名によって制約できるようになっていました。実際、ほかの権利義務は「法律の範囲内」と規定されていましたが、「信教の自由」だけは、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という、権力者側の意思がかぎりなく介入し得るようになっていました。

 この制度の巧みなところは、天皇を持ち上げていることです。自由の制限などの権力行使が過度になっても、権力者は天皇に隠れやすく、一方、国民にとって憲法や自由は、天皇から「与えられた」ものなので、何を制限されようと、ありがたく受け入れるしかなかったのです。水戸黄門の印籠を持った助さん・格さんが暴走しても、彼らが印籠を出せばだれもがひれ伏さなければならないようなものです。

[2]教会の「巧みな」自由の行使
 このような状況ですから、旧憲法二八条を基に信教の自由を訴えることは、実質的には不可能でした。いつまでも邪教扱いされる日本の教会は、「与えられた」自由を利用するしかなかったのですが、その結果についていくつかの例をあげます。

上智大学事件
 一九三二年、上智大生の靖国神社参拝拒否がマスコミに取り上げられ、大学やキリスト教全体が日本的でないという批判にさらされました。カトリックの大司教が文部省に「神社は宗教なのか」と照会し、その返答に基づき教会は神社参拝を容認します。プロテスタントを含む日本の教会全体が、いわゆる神社非宗教論を受け入れるきっかけとなった事件と言われます。

 しかし大司教の照会文は、「宗教的意義を有するに非ざるを明らかにせらるるならば参加する吾人の困難は相当減少」という、神社参拝は宗教行為でないと文部省が言ってくれれば楽に受け入れられるので助かる、と言っているようなものでした。文部省の返答も巧みなもので、「神社は宗教ではない」などとは一言も言わず、教育上の理由と「愛国心と忠誠とを現はすものに外ならず」とだけ言います。日本の教会は、政府や世論の批判をかわして教会を守るため、自らの信仰よりも、神社非宗教論を「自由」に受け入れたのでした。

朝鮮人キリスト者への神社参拝の奨励
 一九三八年、プロテスタントの最大教派であった日本基督教会大会議長が朝鮮へ出向き、「何時日本政府は基督教を棄てて神道に改宗せよと迫ったか」と言って、神社参拝を説得しました。明治天皇が「大御心を以って世界に類なき宗教の自由を賦与」してくださったのに、それをさえぎるのは冒とくだ、とも言いました。先の神社非宗教論、「与えられた自由」が結実しています。

 この勧めを拒んだ人々の中から後に、朱基徹牧師ら殉教者が出ました。「自由」を履き違えることの愚かさを憶えるべきでありましょう。

ホーリネス弾圧
 一九四二年、ホーリネスの再臨信仰が治安維持法に抵触するとされ、百名以上の牧師が拘束され、七名が命を落としました。その信仰の闘いは記憶されるべきであり、弾圧の不当性も見過ごしできませんが、検証すべき問題もあります。

 裁判が行われ、そこで争われたのは、天皇かキリストか、ということでした。今では簡単に答えられそうですが、当時は教会の存亡、キリスト者の命にかかわる問いでした。そこで、天皇を崇めて神社に参拝する日本人であることと、キリスト者であることは矛盾しないと主張したのです。神社問題で弁護士は、「もちろん宮城遥拝や明治神宮参拝、靖国神社参拝等につき、一般国民としての誠意を欠いている者はおりませぬ」と牧師を弁論し、無罪を訴えました。ここでも神社非宗教論や、自由を与えた天皇への崇敬の念は、キリスト者を守ると考えられていたのです。「イエスは主である」という信仰告白に生きるべき教会の目が曇ったのはなぜでしょう。私たちにも重い問いです。

 このように戦時下の教会は、「信教の自由」を手放すようにして、自らの身を守ったのでした。それでは今日はどうなのでしょうか。