ブック・レビュー 東日本大震災は、日本の教会の何をあらわにしたのか

 『東日本大震災から問われる日本の教会』
佐々木真輝
保守バプテスト同盟 北上聖書バプテスト教会牧師

地震と津波と火災によって瓦礫と化した人々の生活の跡。リュックを背負って瓦礫の間を歩く人々や行き交う自衛隊の車両。そうした光景に「戦後の焼け野原とはこんな感じだったのだろうか」と考えたことを思い出す。
3・11を第二の敗戦になぞらえる渡辺信夫氏の思索は、本書の要石と言える。戦後の教会に宿題として課されていたものが、実はほとんど何も手をつけられずにきたことを、3・11の出来事は暴き出してしまった。それは、本書の後半で取り上げられる「原子力」の問題や「在日」「外国人被災者」の被災体験のいたましさ、問題の複雑さにも如実に表れている。
私の知識ではこれら個別の問題に立ち入ることに難しさを覚えるが、ウラン採掘から始まり、最終処分方法の定まっていない原子力利用に「平和利用」が幻想に過ぎないことは直感できるし、在日の方々や外国から嫁いで来られた方々の生きることの大変さは、日常の牧会の中でも度々出くわす事柄である。それらは教会の置かれた地域の問題として考えるなら、一般論としての「社会問題」ではなく教会の課題であるはずなのに、私たちはほとんど素通りして来た。渡辺氏が指摘するように「おかしい」と感じつつも、である。
しかし本書のタイトルが示唆するように、3・11の出来事は、日本の教会のありようを根本から問い直している。この問いへの一つの回答としての朝岡勝氏の論考は、ご自身が道半ばであることを告白しながらも、現場で労する者たちと、みことばとの深い対話の中から生まれたものと察する。氏が提唱する「伝える教会」から「仕える教会」への転換は、決して被災地支援という実際的な必要から生まれたものではなく、聖書自体の示している教会の本質が必然的に求めていることであると思わされた。
はたして3・11以後の私たちは、戦後に課せられたはずの宿題に答えていけるだろうか。そのような実践的思索の旅の入り口として、本書は実に様々な材料を与えてくれると言えるのではないだろうか。