キリスト教良書を読む  第5回 No.5『福音はとどいていますか』

工藤信夫
医学博士

◆一冊の本との出会い

一つの出会いが人生を決めるのと同様に、一冊の本との出会いが何十年の信仰生活を一転させることがある。次のレポートは夏と冬、定期的にもたれるようになった札幌ベテル(キリスト教良書を読む会)に提出されたものである。「教会で教えられる生き方が大切だと信じ、それを心がけて過ごしていました。月日の経過とともに、その生き方が重荷となり、その思いが頂点に達しようとしている時に、『福音はとどいていますか』に出会いました。『先ず』という断想は、心の重荷の原因を明らかにしてくれました。教会では、信仰を高め、クリスチャンらしさを追い求める姿が大切な生き方として教えられていました。しかし、その教えは、『現在』を否定し、神にすでに赦されている『ありのままの自分』を否定する生き方でした。つまり、心の重荷の原因は、信仰による自己否定だったのです。この本が明らかにしてくれたのはそれだけではありません。私に誤りがあることを明らかにしてくれたのです。教会に集い、説教に聴き、聖書を読んで、自分自身を客観的に捉え、自己点検ができていると思い、そのような自分に誤りはないと思っていること自体が、大きな誤りであることを教えてくれたのです。さらに、新たな視点を提示してくれました、それは、神と信仰、そして人生に対する考え方です。『宗教の限界』や『霊的人生態度』をはじめ、本書に記されている視点は、教会で語られていても不思議ではないと思うのですが、教会ではこのような視点から神や人生について語られることはありませんでした。そのため、私は長年教会に集いながらも、自分の思い違いに気づかなかったのです。この本に出会うまでの十数年、クリスチャン生活を送りながらも、本当の福音を知りませんでした。心の重荷の原因を明らかにし、新たな心の道筋を示してくれたこの本は、私に本当の福音を届けてくれた大切な一冊となっています」

◆この本の価値

アンソニ・デ・メロのことばに、「神について作り上げたイメージが本物かどうか疑ってかかりなさい。そのほうが、単に(神を)拝するよりも、もっと神に喜ばれる」というものがあるが、人は、案外思い違いをしていることのほうが多いのではないだろうか。これは、「信仰とはだまされやすいことではない。何でも信じる人は何も信じない人と同じくらい神から離れている」と主張し、「時には少しばかりの健全な不信仰が(健全な信仰のために)必要である」(『キリストに根ざして』いのちのことば社、一四一~一四二頁)と説いたA・W・トウザーのことばに通じるものがある。
先のレポートを書いた青年は、小学校から不登校となり、大検を経て大学に進学するも、慢性疲労症候群にかかり、日常生活にも不自由を強いられたため、医療にも失望し、教会に助けを求めて集うのは必然の成り行きであった。
ところが残念なことに、教会で語られていた教えは、「心に平安がないのは信仰が足りないから」と、祈りの不足を責められるような内容であったという。それは、連載の初回に述べたP・トゥルニエの指摘、“福音”の名を借りた道徳主義そのものであった。つまり、オドオド・ビクビクの律法主義であり、人を赦し、解放し、自由にする神ではなく、人を罰し、追いつめる神であった。
この青年が、教会は本当の福音、今ある自分をそのまま認め受け入れる福音を語ってほしいと叫ぶその声は、切実である。今日の日本の教会で、本当の福音は語られているのだろうか。救いを求めて行った教会で、かえって失望の中に教会を去った人々も少なくないのではないだろうか。

◆断想

聖書も、その読み方を間違えると致命的なものとなる。彼を助けた断想とは、次のような内容ものである。
「何を措いても先ずしなくてはならないこと、それは、私はこれでよいのだという自己肯定です。それは、自己満足ということでも、無反省な自己追及ということでもありません。私たちを縛っているさまざまな社会的基準や道徳的価値から、自分自身の人生を解放して、大切にするということです。生きる上での一応の目途にすぎない人間の作った基準や価値に縛られ、私たちは折角それぞれに用意されている自分の世界が、すっかり見えなくなっています。それを見出し、それを楽しむ、その為に先ず自分を肯定すべきなのです」(一三六頁)
聖書を簡単にわかったなどと思わず、手間暇かけて自らを点検し、自らの立っているところを誠実かつ正直に問い続ける永遠の求道者の姿こそ、キリスト者に求められる資質に違いない。