キリスト教良書を読む  第3回 No.3『『暴力と人間』『女性であること』

工藤信夫
医学博士

前回は、「トゥルニエを読む会」でいちばん反応の多かった『生の冒険』(ヨルダン社/一九七一年)を取り上げた。今回は、なかなかテキストに名が上がらなかった二冊の本『暴力と人間』(ヨルダン社/一九九七年)、『女性であること』(ヨルダン社/一九九八年)を紹介したいと思う。私は内心、この二冊こそ今日の世界の混乱“生きづらさ”に光明を与える良書と思っていたが、実際には、不思議と敬遠されてきた。
人助けの裏に隠れた動機―『暴力と人間』
『暴力と人間』という本は、そのタイトルに見るように、人間の攻撃性、暴力性を扱ったものである。トゥルニエは、高邁な思想・使命感の背後には、しばしば恐るべき支配性、権力欲、暴力性が隠れていることを明らかにする。
「私が言いたいのは、人を助けたいという望みのことであるが、これは無私の極みと一見見えても、実はそれほど美しいものではない。苦しむ人を助けるということは、美しい役割を演ずることであり、力関係では優位に立つことになる。不幸な人の上に身をかがめるということは、支配する姿勢である。そして誰でも人は救済者と見られることには、やはり無関心ではいられない。これは普通、人が考える以上に実際の動機となって作用しているようだ」(二三〇~二三一頁)
こう述べて、トゥルニエは自分と同様の指摘をしている医師のことばを紹介している。「実際彼は、医師、心理学者、聖職者をはじめ、福祉関係者や教育者に対しても語りかけ、深層心理学の光に照らしてそれぞれの人が深く自分自身を反省するようにうながしている。彼は言う、『人は誰でも表面立った動機だけで行動することはない。いかに崇高な行為であろうとも、崇高な動機のほかに別の隠れた動機を持っており、はっきりとした動機のほかに、はっきりとしない動機も隠し持っているものである』」(二三四頁)
ところが、人を「助けたい」と思って働く人々は、決して自分がそういうものとは認めたがらない。つまり、こうした無意識的衝動を隠蔽し、抑圧する。かくして無私とか、無償の愛ということで、宗教や信仰者は美化されがちであるが、その陰の部分の暴力が人を苦しめることになる。
拙著の『信仰による人間疎外』(いのちのことば社/一九八九年)が、出版後二十年を経て今もなお、水面下で読み続けられている現実は、この指摘と決して無縁ではないであろう。そこには、宣教や伝道という名で支配され、操作され、はじき飛ばされた信仰者の悲劇が多く記されている。
カトリック司祭ヘンリ・ナウエンもまた、このような現実に多く接してきた人物なのだろう。
「神がこの世界をみられるとき、涙を流されるだけでなく、怒りをも覚えられているに違いありません。というのは、神に祈り、賛美を捧げ、神に向かって『主よ、主よ』と叫びながら、わたしたちの多くもまた、力によって腐敗しているからです。……もっとも狡猾で、分裂を引き起こし、人を傷つける力は、神への奉仕と称して使われる力です。『宗教によって傷つけられた』という人のおびただしい数にわたしは圧倒されます。牧師や司祭による心無い言葉、あるいは人を裁くような言葉、ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けた数知れない心の傷」(『わが家への道 ―実を結ぶ歩みのために』工藤信夫訳/あめんどう/二〇〇五年/二七~二九頁)
男性原理優先の社会―『女性であること』
トゥルニエは、こうした現代人の疎外、暴力、孤独は、「人より物」「心情より理性、合理性、力」を求め続けてきた「男性原理」優位の歴史に、その一因があるという。
つまり、男性原理はdoing(行為)、女性原理はbeing(存在)に親和性があり、前者は攻撃的、戦闘的であり、後者は情緒的であり平和、調和に向かうというのである。
『女性であること』の中に、次のような注目すべき指摘がある。「男性だけの歴史にしてはならない。絶えざる権力闘争の変転極りなき男性史としてはならない。人よりも物を優先させる男性文明としてはならない」(二四三頁)
そして、もう一つキリスト者にとって注目すべき記述がある。カナの婚礼の奇蹟のとき、母マリヤは、イエスの内的葛藤に「もちまえの女性の鋭い勘でそれに気づいていた」(一七七頁)というのである。
トゥルニエが記しているように(一七九~一八〇頁参照)、イエスが家に来られたとき、葬りに向かっていることをすぐに悟り、ナルドの香油を注いだ女性の直覚と、それだけのお金があれば多くの貧しい人を助けることができたのにとその女の行動を批判した弟子(男性)との間にある大きな隔たりは、一体何なのだろうか。