キリスト教良書を読む  第12回 No.12 最終回

工藤信夫
医学博士

『牧会者の神学』
E・H・ピーターソン著
越川弘英 訳
日本基督教団出版局

『深夜の教会』
フィリップ・ヤンシー著
御立文子 訳
あめんどう

一枚のレポート

先日、もう十年来、定期的にもっているキリスト教良書を読む会(東京都・三鷹)のレポートを見ていて、内心大いに驚くことが一つあった。その人は、この会で自分のキリスト教理解がいかに表層的で浅いものであったかに気づき、毎回大きな発見がある、と書いていたのである。
私はそのレポートを読みながら、この“狭さ・浅さ・偏り”というテーマは、今日の日本のキリスト教界の大きな問題ではないかという気がした。というのは、このような発言はここ数年、あちこちでもたれている少人数の学び会でよく耳にする言葉だからである。
しかもそこに集ってくる人々は、長年、教会の中心的なメンバーとして働きながら、自分自身の養いの欠如を感じたり、「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8・32)というみことばを聞きつつも、いっこうに自分の心が解放されていないことに気づいた人たちなのだから、事態は深刻である(一例をあげると、この連載の中でも取り上げた『放蕩する神』〔ティモシー・ケラー著〕で指摘されているように、放蕩息子の話は、放蕩した息子が父なる神の元に戻る単なる感傷的な物語レベルで捉えられるが、兄もまた失われた者であること、むしろ兄的なキリスト者を教会が作り出しやすいこと、イエスの働きを妨げていること。また、P・トゥルニエが『人生の四季』で指摘したように、律法と恩寵の根源的な違いなどである)。
つまり、“わかったつもり”のキリスト教理解が多いということである。この点、「神について作り上げたイメージが本物かどうか疑ってかかりなさい。そのほうが、単に(神を)拝するよりも、もっと神に喜ばれる」というアンソニ・デ・メロのことばが示唆的である。
どうしてこのような事態が生じるのであろうか。
その要因は、単純ではないに違いないが、私はそれぞれの教会(牧会者)の聖書理解、あるいは神学校教育に何か決定的な問題、または“方向違い”があるのではないかと思っている。というのも、学びはその教えをなす人の聖書理解とその指導者のあり方、生き方(今流に言えば、牧師の霊性)に深く関わっていると考えられるからである。

二冊の本

三十年近くアメリカで牧師として働いたのち、カナダのリージェント・カレッジの教授として神学を奉じてきたE・H・ピーターソンの『牧会者の神学』の中に、このことをうまく言い当てている箇所がある。次のようなものである。
「アメリカの牧師たちは『企業経営者』の一群に変容してしまった。彼らが経営するのは『教会』という名の店である。牧師は経営感覚、すなわち、どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるような商品をパッケージすることができるか……そうした経営者的な感覚に満ちている。ある者たちはきわめて優秀な『経営者』である。彼らは大勢の顧客を魅惑し、人々から莫大な額の金を引き出して、輝かしい評判をとる。しかし、それはあくまでも『商店経営』にすぎない。それは、『宗教という商店経営』であって、『商店経営』という点においては他の商売となんら変わることはない。目覚めている時、これらの企業家たちの心を占めていることはファーストフード店の経営戦略と同じような関心である」「ジャーナリストの注目を集めるようなたぐいの成功である」(八頁)
そして彼は、「『成功した教会』など存在しないという事実を聖書は教えている。存在するのは、世界中の町や村で、毎週毎週、神の前に集う罪人たちの集いに過ぎない」「牧師の責任とは、そこに集う人々の関心を神に向かわせ続けることにある」(八、九頁)と主張する。
『深夜の教会』の話は意義深い。ある時期、著者フィリップ・ヤンシーは一人の牧師と定期的に会っていた。その人物は、アメリカ陸軍兵としてドイツのダッハウ強制収容所を訪れ、「絶対的な悪」を見たことで、牧師の召命を受けるのだが、その話を聞いた著者は一つの質問をする。「今世紀最大の悪に立ち向かう」という壮大な召命を受けた人物が、シカゴの一室で、ありふれた中流化の人間のとりとめのない身の上話を聞いているという現実についてである。その問いに、牧師はこう答える。「“取るに足りない人”などは存在しない。人のうちに宿る『神のかたち』とは何か、わたしはあの日、ダッハウで学んだのだ」(二五頁)と。
もし、牧師たちが経営者感覚で人々の歓心を買い、称賛を得ることを求めるなら、教会は一体どうなるのだろうか。「世界中の町や村で、毎週毎週、神の前に集う罪人たちの集い」は忘却され、人々は未成熟なまま置き去りにされるということが、現実に起こり得るのではないだろうか。