キリスト教良書を読む  第1回 No.1『人生の四季 発展と成熟』

工藤信夫
医学博士

はじめに
言うまでもなく、自分にとって意味ある本というものは、自己発見と確認の書である。自らの混沌に“光を与え”、方向づけを与えるからである。
このことは、詩篇の記者が「みことばは、……私の道の光」(詩篇119・105)と呼んだことにも通じる事実であろう。
四十代半ばから十年あまり、スイスの精神科医P・トゥルニエの著作を読む会を主催してみて、私のもとに寄せられた参加者の感想はこれを裏づけるものであった。その多くは、「私が漠然と思っていたことを(トゥルニエ)博士は、“ことば”にしてくださいました」とか、「この会があったからこそ、四十、五十代の坂を越えることができました」などというものであった。
良書というものは、人を照らすと同時に“人生の導き手”なのかもしれない。そして、この関係は、“神と人との関係”になぞらえることができる。神が道を照らす方であれば、人間は照らされる側である。神が教え導く方であれば、人間は教えられ、導かれる存在である。こう考えると、キリスト者にとって良書との出会いは死活問題となる。
二〇〇五年に始めた“キリスト教良書を読む”という学び会は、このような発想に基づいたものであった。
もちろんこれは二十年、三十年と続いた講演活動を顧み、一回きりの話ではその人の生き方、信仰が理解できるはずも、伝わるはずもないという反省から、札幌から長野、神戸に至るまで、全国八か所でなされるようになった。十人、十五人の参加者が決められたテキストを読み、その感想を持ち寄り、分かち合うことは“神の多様性”を示し、信仰の質を高め、深めることになることを実感した。
そこで私は、その会でよく取り上げられた何冊かの本を紹介し、読者の今後に資することを期待してみたいと思う。

P・トゥルニエの著作と『人生の四季』

ヨルダン社の閉鎖によって、そのシリーズの多くは入手困難になったとはいえ、トゥルニエの著作とその主張は、今日でもなお、深い納得、説得力をもって多くのキリスト者に語り継がれている。一九七〇年、今から四十年前に翻訳された『人生の四季』が、二十刷以上を重ねて今日でも読まれ続けているという事実がそのことを裏づけている(日本キリスト教団出版局にて再版)。
日本に〝ライフサイクル(人生周期)”という言葉が導入されたのは一九七〇年代と記憶するが、P・トゥルニエはそれに先立って、人生を春、夏、秋、冬と分け、その発達課題とキリスト者の生き方をこの本で提示している。たとえば、子ども時代は〈人生の春〉―準備期であり、子どもの尊重がそのテーマになるという。トゥルニエは言う。「子供の誤りを正そうとしてではなく、自分の子供たちの本性を発見しようという真の好奇心に燃えて子供たちのいうことに注意深く耳を傾ける親たち、とりわけ父親たちが果たして何人いるでしょうか」(三浦安子訳、ヨルダン社、二七頁)と。
そして、「詩人の言葉でもって私たちは子供と語らなければなりません。子供たちは詩人の言葉でもって人生を理解しているのですから」(三二頁)という。
しかるに悲しいかな、親というものは「早く、早く」と子どもを急き立て、あれもこれもと教え込んで〈現実主義者〉に仕立てあげようとし、せっかくの創造性、独創性をダメにする。ところが将来、人生の成功への鍵となる冒険心、感動、好奇心、他者と深く交わる能力などは、遊びの中で、また“ゆとり”のある時間、“何もない自由な空間”の中でこそ培われるという。「子どもは大人の父」というワーズワースの言葉があるが、感性において、彼らは大人よりはるかに優れた存在なのである。
また、〈人生の夏〉は、神が人間の反抗を許し、人間の失敗をも生かして、そのご計画をなし遂げることを知らしめる活動の時期であるという。
前者の例は使徒パウロであり、後者はペテロである。つまり、パウロはその前半が迫害者だったからこそ回心後、従順、忠実な下僕となり、ペテロは大きな失敗をしたからこそ、殉教者となり得たのだという。
これは、私たちが通常良しとし、またキリスト者に尊ばれがちな安易な従順、服従と、なんと異なることか。
そして老年期、〈人生の冬〉とは、統合の時期であり、断片的、孤立的また無意味と思えた過去の出来事一つひとつが統一体であり、見えざる神の導きの御手の中にあったことを知る時期だというのである。
この本は、これからもキリスト者の人生の導きの書であり、励ましの書であり続けるに違いない。