スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第十四回 旅の中の出会いから学ぶ4 森と湖の国フィンランドを尋ねて

坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。

 

フィンランドに行くきっかけになったのは、フィンランドから埼玉大学に留学していたマルックさんという人との出会いであった。彼はフィンランドのヨエンスーという町の大学の教師であった。時々、浦和福音自由教会に来ていた。帰国する時に、「ぜひ一度フィンランドに来てほしい」と言っていたのを思い出して、今回の旅行のスケジュールに入れた。

ノルウェーからフィンランドまでは、飛行機で「あっという間」に着いた。その日の夕方、マルックさんは、「山に登ってみよう」と誘ってくれた。しかし、それは山ではなく「丘」であった。その丘からロシアの大地が見渡せた。国境と思われるところには何もなく、平坦な丘が続いていた。共産主義時代の「ソ連」に隣接していながら、フィンランドは賢明な外交をして、国の独立を保っていた。サンクトぺテルブルク(レニングラード)から何時間もかからずに行ける距離であった。
数日後、私はヨエンスーからイーサルミまでバスで移動した。おそらく十時間ほど乗っていたのではないかと思う。なぜ、イーサルミに行くことになったか。

じつは、友人の太田和功一さんに「今度ヨーロッパ旅行でフィンランドに行くことになった」と話したとき、「フィンランドにはマイリス・ヤナツイネンという女性がいる。彼女は日本で宣教師として働いていたとき、KGK(キリスト者学生会)の協力スタッフとして働いていた」と教えてくれた。その後フランスのリヨンで行われた「ヨーロッパ日本語キリスト者の集い」で不思議な導きで彼女と出会った。彼女は早速フィンランドのマルックさんと連絡を取り、「坂野さんのフィンランド滞在の半分を自分にまかせてくれ」と交渉したとのことであった。すごい行動力だと驚いた。

彼女の実家がイーサルミにあった。

さて、バスでイーサルミに着くと、マイリスさんが待っていて、彼女の妹のカイヤさん夫妻が牧会している国教会に案内された。カイヤさん夫妻とは英語で会話をした。後に、マイリスさんが「坂野さんのお陰で、カイヤさんは英語に目覚めて、その後博士号をとるほど勉強した」ということであった。

その後、カイヤさんのご主人(牧師)の車で、イーサルミの郊外のマイリスさんの実家に移動した。お父さんはもともとカレリヤ地方に住んでいたが、その地方はロシアに占領されて、多くの人々はフィンランドに逃げて来た、ということであった。お父さんもそのうちの一人であった。私が、お父さんに「最初、お嬢さんのマイリスさんを宣教師として日本に送る時はどのようなお気持ちでしたか?」とお聞きすると、「娘は、二度とフィンランドには帰っては来られないと思って送り出した」と言っていた。宣教師を送り出す家族の犠牲の大きさを思わされた。

その翌日、カイヤさんのご主人に誘っていただいて、近くの小さな湖で舟に乗り、泳ごうということになった。「水着を持って来ていない」というと、「裸で泳げばいい」と言うので、「見ている人がいると恥ずかしい」と答えると、「誰も見てなんかいない」と言って湖に裸で飛び込んだ。私も仕方なく、生まれて初めて裸で飛び込んだ。泳いでいるうちに、気持ちよくなり、心が解放された。

しばらくして疲れてきたとき、湖畔に建っていた小さな小屋のサウナに入り、葉っぱのついた木の枝で自分の身体を軽く叩いた。そしてフィンランドのお菓子をご馳走していただいた。アダムとエバが罪を犯す前に、「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世二・二五)というのは、このような感じだったのかと思った。

その夜、マイリスさんの家の家庭集会が開かれた。近所の人々がたくさん集まって来た。でもマイリスさんは、用事でヘルシンキに帰らなければならなかった。私の英語の説教をフィンランド語に通訳してくれたのは、ロンドンで学んでいる彼女の姪であった。人々はみことばに熱心に聞き入っていた。彼らは、マイリスさんが日本で宣教をするために支援していた人々であった。「マイリスが日本の宣教について報告したことは、本当だったのだ」と感動していた。

その後、私は電車でイーサルミからヘルシンキに行き、マイリスさんがその町を案内してくれた。そして私は彼女が教えている「聖書学校」のクラスで講義をし、彼女は日本語からフィンランド語に通訳してくれた。マイリスさんが作った「聖書の学びのテキスト」はとても興味深く、私たちの教会でも用いられている。