ウツと上手につき合うには 第11回 ついてないと思えるときに

斎藤登志子

この連載を読んでおられる方の中には「なんだ斎藤のうつ病は軽いな」と思われる方がいるかもしれません。たしかにそのようです。うつ病の友人と話していても私のほうがウツから立ち直る時間も短いし、薬もよく効くようです。同じ病名がついていても症状が同じとは限らないのです。

同じ病気を患っていても、症状の軽い人のほうがうらやましく思える。それよりも健康な人がうらやましい。これは誰もが思うことでしょう。「どうして私だけがこんな目にあうの」と、自分の運命を呪いたくなるときってありますね。

病気に限らず、思わぬ不幸に見舞われたとき、「私ってついてないな」「私って運が悪い」とみな、感じることでしょう。中には「どうして私がこんな目にあわなければならないの」と、できることなら神様の首根っこをつかまえて問い詰めたいと思っている人もいることでしょう。聖書には「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ八・二八)と書いてありますが、問題の渦中にあるときにはとても益になるとは思えないものです。

私もそう思っていました。けれども「なぜ私が」という問いは、いくら問うたところで答えは返ってこないし、その中でもがけばもがくほど苦しくなり、ますます抜け出せないぬかるみにはまっていくのです。正直なところ、この問いに対する答えは存在しないのです。

結局、私はそのように問うのをやめ、うつ病と戦うこともやめました。病気に全面降伏したわけではありませんが、がんばってウツを治そうとするのではなく、ウツと休戦協定を結んだわけです。ウツに対して「私はウツを追い出したりしないから、そちらもあんまり私の邪魔をしないでね」と平和共存の道を歩みだしたのです。それからは、ウツに振り回されるのではなく、どうしたらウツをうまく飼い馴らすことができるかと工夫するようになりました。

ときどき、薬を拒んだり、医者の言うことをきかない患者さんやその家族を見ていると「病気を受け入れなさい」と言いたくなることがあります。病気になってしまったことは残念ですが、動かしようのない事実です。だとすれば病気と正面から向き合ってその対処法を探していくしかないのではないでしょうか。運命に抵抗するのではなく、運命を受け入れる。そこから見えてくることもあると思うのです。

「ノー」をうけいれる

同じ病名がついていても
ある人は早く治りますが、
ある人はなかなかよくなりません。

ある人は家族が病気を理解してくれて
いたわってもらえますが、
ある人は家族に冷たくされます。

ある人は仕事を休んでも復職できますが、
ある人は病気のために職を失います。

運命は不公平です。
運命は残酷です。
運命は非情です。

どんなに努力しても
どんなに手を尽くしても
どうにもならないこともあります。

病気に、家族に、仕事に「ノー」と言われたとき、
「どうしてわたしが」と問いたくなります。
自然な反応です。
でも、理由はわからないし、わかったところでどうにもできません。

そんなとき、ただひとつできることがあります。
それは「ノー」をうけいれることです。

運命に抗わずに「ノー」をうけいれる。
まず、そこからはじめましょう。

(『傷つきやすいあなたへ』木村藍 著、文芸社より)

おそらく私たちにとってもっとも励ましとなるのは、ラインホルト・ニーバーの「静けさの祈り」でしょう。

神よ、
私に変えることのできないものを受け入れる静けさと、
変えられるものを変える勇気と、
その二つを見分ける知恵をお与えください。

 

ウツと上手につき合うには 最終回 傷ついた癒し人