わが家の小さな食卓から
愛し合う二人のための結婚講座
第3回 結婚後の教会生活―教会は第二の実家!

大嶋裕香
 1973年東京生まれ。宣教団体でキリスト教雑誌の編集、校正を手がける。99年にキリスト者学生会(KGK)主事の夫と結婚後、浦和、神戸、金沢と転々としながら年間100~200名近い学生、卒業生を自宅に迎える。KGKを中心に、夫と共に結婚セミナーで奉仕。その傍ら、自宅でパン教室、料理教室を開き、子どもたちにパン作りを教えている。13歳の娘と10歳の息子の母親。

わが家の食卓で、結婚前のカップルと行っている学びの三回目。「教会生活で共有しておきたいこと」を三つずつ書き出し、分かち合います。
教会を超えた交わりの中で出会ったカップルの多くは、当然、結婚後はそれまでの所属教会と違うところにどちらかが移ることとなります。そして、そのことがいくつかの軋轢・誤解を生み出すのを見てきました。
「新しい教会のこと、聞いてください! こんなことがあったんです。祈ってくれますか」と、わが家に相談に来る方々は結構多いのです。「あなたがたは……神の家族」と言われるように、出身教会はその人にとって第二の実家と言えるほど大切なものだと思います。
前号では「家族の思い出を振り返る」ことについて触れました。第二の実家、第二の家族と言える教会についても、結婚前に分かち合っておくと、結婚後二人でスタートする教会生活がよりスムーズになることでしょう。
また、たとえ出身教会が同じでも、教会生活は信仰の大事な一部分ですから、分かち合いは有益です。「この人は教会の奉仕をとても大切にしているんだなあ」「献金を第一に取り分けて、おささげする信仰が素敵」など、相手の教会に対する姿勢を知ることで、互いの尊敬と信頼を勝ち得る声を多くのカップルから聞くことができました。
特に二人の出身教会・教団が違う場合、女性側が男性側の教会に移ることが多いと思います。女性は結婚すると、ほとんどの方が苗字が変わり、生活環境が変わり、教会も変わります。もちろん愛する人と同じ苗字になるのはうれしいのですが、私もやはり最初は慣れませんでした。
それまで「裕香さん」と名前で呼ばれることも多かったので、銀行や病院で呼ばれてもすぐ気づけるように、「私は大嶋、私は大嶋……」とつぶやいていたものでした。結婚後の変化の大きさ、そのストレスを伴侶が知っていてくれ、ねぎらってくれると、より愛が増すものです。
  

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私たち夫婦も出身教会が違います。夫は関西の福音自由教会、私は関東の単立教会出身。
結婚一年目は、夫の奉仕先の教会に出席。そこは約四百名の大規模な教会で、第一礼拝、第二礼拝、夕拝と集う方々の顔ぶれもがらりと変わります。
結婚後初めての礼拝後、夫はいつもどおり学生たちに声をかけ始め、私は一人ぽつん。
「結婚おめでとう!」と言ってくださる方に笑顔で返すのですが、どなたがどなたかさっぱりわからず、頭の中が「???」でいっぱいに。
帰ってから夫に言いました。
「今日はとても悲しかった。来週はあなたとずっと一緒にいるから、その方があなたとどういう関係の人で、一緒にこんな奉仕をしているとか、私たちとの関係性を一回一回説明してもらえる?」と。
「ああ、ごめんごめん。自分はこの教会で三年目やけど、裕香は初めてなのにね。ごめんね」。こうして、丁寧に人間関係を説明してくれた夫のおかげで、翌週から私は教会の交わりに飛び込むことができました。
約一年半その教会で過ごし、夫の神学校入学後一年目、二年目は福音自由教会、三年目に兄弟団の教会で奉仕。夏季伝道では改革派の三教会で奉仕。神学校卒業後には、北陸の日本同盟基督教団の教会で約四年過ごし、転勤で今の関東の福音自由教会に集って七年目です。
どれだけいくつもの教会生活を経験したとしても、最初は、どの教会でもとまどいます。しかし、どこの教会も離れる時は身を切られるようにつらいものです。やはり神の家族となるからでしょう。
そして今、私たち夫婦が実感しているのは、「教会に居場所ができるのには三年かかる」ということです。ですから、いろんな方の相談に乗るときも、「最初は慣れなくても、三年待ってみてね」と話すようにしています。
「男性は特に、相手が今までと違う教会に行く決心をしてくれたことをよーくねぎらうことが大切。教会を移ることは、何でもないことじゃないから」と、夫も経験上、力強く分かち合っています。
また、こんなこともありました。
夏季の一か月だけ奉仕していた教会でのこと。当時私は一人目の子を妊娠中。大きなおなかでお茶を運んでいて、床にこぼしてしまいました。すると、「そういう時は動かなくていいのよ。ここは実家だと思ってゆっくりしてね」と一人の婦人が言ってくださいました。涙が出るほどうれしかったです。私もそんな声かけができる人になりたいと思うとともに、私たち家族には魂の実家がたくさんあって、なんて贅沢なんだろうと思わされています。