つい人に話したくなる 聖書考古学 最終回 サドカイ人!?パリサイ人!?

杉本智俊
慶應義塾大学文学部教授、新生キリスト教会連合(宗)町田クリスチャン・センター牧師(http:// www.mccjapan.org/)

Q サドカイ人とパリサイ人の違いは何ですか。

ユダヤ人やローマ人、サマリヤ人などは、〝日本人〟と同じような民族の名称です。一方、サドカイ人やパリサイ人というのは、「○○家」「○○派」といった、家系や思想ごとの集団です。そのため、「じん」ではなく「びと」と呼びます。ほかにも、「イエスはガリラヤ人」という場合は、「ガリラヤ出身」という意味です。「○○人」といっても、多様な使われ方がされているのです。
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まずサドカイ人を見ていきましょう。サドカイとは、ヘブル語の「ツァドク」からきており、これは古代イスラエルの第二代目の王、ダビデに仕えた祭司の名前です。「アヒトブの子ツァドク……は祭司」(サムエル記第二8・17)
つまりサドカイ人とは、エルサレム神殿の祭司階級の人々を指します。彼らは、旧約聖書の時代に幕屋(のちの神殿)で動物を神にささげる祭司の仕事にかかわったレビ人(レビ族)の家系です。特に大祭司は、初めて祭司となったモーセの兄、アロンの家系しか就くことが許されませんでした。けれども、イスラエルが南北に分裂したときに、これらの祭司階級制度は大きく崩れます。
なぜなら北王国は、神殿のあるエルサレムとレビ人たちを失ったからです。「あなたがたは、アロンの子らである主の祭司たちとレビ人を追放し、諸国の民にならって自分たちのために祭司を任命したではないか」(歴代誌第二13・9)
南ユダ王国では、新バビロニアからの攻撃でエルサレム神殿が破壊されましたが、祭司やレビ人の家系は捕囚の間も維持され、帰還後の第二神殿では、彼らがそれぞれの役割に復帰したことが知られています。
こうして、イエス・キリストの時代、サドカイ人は祭司としてエルサレム神殿で動物犠牲を執り仕切る宗教的指導者となりましたが、奇蹟や復活は信じていませんでした。彼らの宗教観は、個人の救いではなく、国家を守ることでした。実際のところは、上層階級に属し、合理主義者で現実と妥協し、うまく世渡りをしていこうとするユダヤ社会の支配者的立場の人々だったのです。
一方パリサイ人は、そのようなサドカイ人に反発した人々です。パリサイとはヘブル語の〝分離する〟からきており、主に職業を持つ一般の人々によって形成されていました。ヘレニズム諸国からの独立を求めたのはエルサレム神殿とヤハウェ信仰を守るためだったのに、いつしか権力を握ることを目的とするようになった祭司たちを堕落していると非難し、たとえ祭司が堕落しても自分たちはきよくあろうとした人々です。
ユダヤ人らは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンに捕囚とされた時代、代わりに「シナゴーグ」という集会場を建て、そこで聖書(トーラー)を朗読し、ヤハウェを礼拝するようになりました。後にユダヤ教が、祭司による神殿での「動物犠牲」から、律法を守ることに中心を置くように変わる基礎がここにあります。聖書のモーセ律法を学んだ教師、いわゆるラビと呼ばれる人々が現れ、さらに細かな「口伝律法」を定めて、民衆を指導しました。その教師たちが、イスラエル建国後もパリサイ人として残ったのです。
パリサイ人たちは、エルサレム神殿が再建され、神殿礼拝が再開した後も勢力を増していきました。自己保身ばかりを考えるサドカイ人たちが嫌われる中、きよく生きようとしたパリサイ人たちは民衆から尊敬されたのです。

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サドカイ人とパリサイ人の違いを表すできごとが、聖書にも出てきます。「しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。『兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。』彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである」(使徒の働き23・6~8)。サドカイ派も、パリサイ派もイエスを神とは認めない点では一致しましたが、その生き方は対極的だったのです。(完)

*この記事はインタビューに基づき、出版編集部が編集・構成しています。

ヘロデ大王が再建したエルサレム神殿(復元模型)