「ダビデの子」イエス・キリスト 第11回 「『ダビデの子』がエルサレムに入場して」

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

マタイの福音書だけが、エルサレム入場の前からイエスを人々の病を癒やす「ダビデの子」として描きます(9・27―31、12・22―23、15・21―28)。しかし、イエスのエルサレム到着あたりから、共観福音書のすべてが「ダビデの子」と呼ばれるイエスを記録します(マタイ20・29―34、マルコ10・46―52、ルカ18・35―43)。

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つまり、イエスはエルサレムに「ダビデの子」として入場します。この場面から、共観福音書ではダビデとつながりの深い詩篇が引用されていきます。今回は、そのうちの最初の二つの詩篇引用を取り上げます。
詩篇118篇
まさしくイエス・キリストがエルサレムに入場する場面で、詩篇118篇26節「主の御名によって来る人に、祝福があるように」が引用されます(マタイ21・9、マルコ11・9―10、ルカ19・38)。つまり、イエスがエルサレムに王として入場したということです。共観福音書はそれぞれ、ユニークです。マルコの福音書は「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に」といい、ルカの福音書は「祝福あれ。主の御名によって来られる王に」といいます。しかしそのとき、マタイの福音書は「ダビデの子にホサナ」といいます。この場面でも、マタイの福音書にだけ「ダビデの子」の称号が登場します。その後も、宮の中でイエスが人々の病を癒やした後、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫びます(マタイ21・15)。エルサレムに入場するイエスが王であり「ダビデの子」であることが、祭司長や律法学者たちにはわからないのですが、子どもたちにはわかりました。イエスは言われます。「……『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか」(マタイ21・16。詩篇8・2参照)。

詩篇110篇
その後、イエスは宮において一つの質問を投げかけます。詩篇110篇1節「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ』」を引用され、こう言われます。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう」(マタイ22・45。マルコ12・37、ルカ20・44参照)。ユダヤの宗教的指導者たちを意識しての問いかけでした(マタイ22・41、マルコ12・35、ルカ20・39)。イエス自身から発せられたこの問いかけはとても大切です。なぜなら、これを機にユダヤの宗教的指導者たちはイエスには質問できなくなってしまうからです(マタイ22・46。マルコ12・34、ルカ20・40参照)。
二つの点に注目します。一つは、この問いかけを通して、「旧約時代から待ち望まれた真のメシヤがどういう方」で、「それは誰なのか」ということを、イエスが暗に示していたということです。メシヤは、ダビデの身から出る「ダビデの子」でありながら(Ⅱサムエル7・12参照)、同時にダビデの「主」でもありました。この問いかけは、「メシヤ」、「ダビデの子」、「主」などの称号すべてにイエス自身を当てはめると解決するものでした。確かにすでに、安息日にイエスの弟子たちが麦の穂を摘んだあの場面(マタイ12・1―8、マルコ2・23―28、ルカ6・1―5)で、イエス自身がこの問いかけに対する答えのヒントを与えていました。イエスは言われました。「人の子は安息日の主です」(マタイ12・8。マルコ2・28、ルカ6・5参照)。イエス自身がダビデ以上の者であり、「主」でありました。
もう一つの点は、エゼキエル書34章との関連です。エゼキエル書では、主ご自身がまずこう言われます。「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。―神である主の御告げ―わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(34・15―16)。ところが後に、主はこうも言われます。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(34・23)。エゼキエル書に描かれる「主」とやがて主が遣わす「ダビデ的牧者」の関係は、イエスが問いかけた「主」と「ダビデの子」の関係と類似するものでありました。やがて「ダビデの子」がなすことが、「主」がなすことでもあったのです。
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共観福音書に登場する「ダビデの子」の称号の登場は、今回の、宮でイエス自身が投げかけたメシヤに関する問いかけの場面をもって最後となります。旧約時代から待ち望まれた真のメシヤはどういう方なのか。そして、それは誰なのか。すべての答えは、イエス・キリストのうちにありました。