あの時代、勝海舟はキリストに何を見たのか ◆勝海舟が生きた、変革の時代

中村 敏
新潟聖書学院院長

勝海舟の生きた時代は、徳川時代の末期から明治時代の後半にあたり、日本の歴史における激動の時代であった。
徳川幕府は初めから、キリスト教を固く禁止し、オランダ、中国、朝鮮を除いて、厳しい鎖国政策を貫いた。しかし十九世紀に入り、欧米列強諸国はアジアに大々的に進出し、東洋の島国日本にも強く開国を迫ってきた。
そして、ペリー提督率いるアメリカ艦隊は、ついに日本の鎖国の扉をこじ開けたのであった。近代文明の粋を集めた蒸気船(黒船と呼ばれた)の威容が、長年の鎖国になれた日本人をいかに驚かせたかは、「太平の眠りを覚ます上喜撰(緑茶の銘柄。蒸気船とかけている)たった四杯(四隻)で夜も寝られず」という有名な狂歌にみられる通りである。
そして日本の国家は、長く続いた封建国家体制から欧米諸国を範とする近代国家へと大きく変貌するのである。

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誕生した明治維新政府は、そのために富国強兵策をとり、脱亜入欧をひたすら目指した。文明開化のスローガンのもとに、欧米の先進国から西洋文明が勢いよく流れ込んできたのである。そうした流れの中で、プロテスタント宣教師たちは宣教活動とともに近代文明の紹介者として活躍した。
こうした激動の歴史の中で、士族層、とくに幕府方に属した士族層はその生活が一変した。彼らはそれまでの安定した身分や生活から、わずかな公債で社会に放り出されたのであった。
明治政府は、薩摩・長州閥が幅をきかせており、賊軍であった彼らは敗残者であり、立身出世の見込みはなかった。そうした彼らが見出した活路が、当時流行の英学を学び、西洋の最新技術を身につけることであった。明治期にキリスト教に入信し、活躍した人々の多くが士族層、とくに旧幕府方出身の士族であったことはよく知られている。
このことについてキリスト教史家の山路愛山は次のように言っている。
「試みに新信仰を告白したる当時の青年について、その境遇を調査せよ。植村正久は幕人の子にあらずや。
彼は幕人のすべてが受けたる戦敗者の苦痛を受けたる者なり。……井深梶之助は会津人の子なり。彼は自ら国破れて山河ありの逆境を経験したる者なり」(『基督教評論』岩波書店)
このように彼は、当時の代表的なキリスト者をあげ、彼らがすべて明治維新においては不遇な旧幕府出身であることを指摘し、「すべての精神的革命は、多くは時代の陰影より出づ」と言い切っている。
明治政府のもとでは、立身出世の望みの薄かった士族出身の青年たちが、英学の学びを通してキリスト教に入信し、ここに、新生日本の精神的土台となるべきものを見出したのであった。
勝海舟も、旧旗本の下級士族出身であり、西洋文明を通して、キリスト教と出会っている。彼は例外的に明治政府で登用されるものの、やはりこうした時代の子であったといえよう。