『聖書を読んだサムライたち』
出版記念講演会 龍馬を斬った男の“その後”2

守部喜雅

龍馬を斬った男の“その後”講師

坂本龍馬を斬った男は剣客からキリスト者へ

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」もあって、龍馬がブームですね。関連本は四百種類にも及び、歴史好きな女性「歴女」も増えているとか。
実は、約四十年前に、クリスチャン新聞に「坂本龍馬を斬った男」という連載を担当しました。それもあって、今回のブームに際して再度資料を見直して本にしました。龍馬を斬った犯人探しは、明治政府になっても続けられました。そして京都見回り組の者が犯人だろうということになり、今井信郎という人物が逮捕され、「自分も確かに係わったが、見張り役で、自分で手を下していない」と自白しています。その結果、禁固刑の後、赦免されました。
しかし、今では今井が犯人であることは定説になっているようです。これは、明治三十三年に発行された「近畿評論」という雑誌に載った、今井のインタビュー記事が根拠になっています。そこで、今井は初めて「私が龍馬を斬った」と話しているのです。ところが、この雑誌の記者が今井の証言以上におもしろおかしく脚色してしまい、他の犯人説を採る人は、今井の売名行為だと非難した。これには本当に色々な議論があるようです。『竜馬が行く』(文藝春秋刊)のなかで司馬遼太郎も、彼が斬ったらしいことは定説だと書いています。
今井は、明治二年に捕まったときに、見張り役とはいえ禁固刑で済んだ。実はそこに西郷隆盛の存在があったんですね。西郷は龍馬が結婚したときに、仲人をしました。非常に近い関係にあった龍馬を暗殺した男を、なぜ助けたのか。彼が好きだったことばに「敬天愛人」があります。天を敬い、人を愛する。これは、どこから来たのか。儒教ではないかという人もいます。しかし、一昨年、鹿児島の南州翁資料館で開かれた「西郷隆盛と聖書展」という資料展で、西郷が実によく聖書を読んでいただけでなく、周囲の人々にも教えていたという説が出てきた。聖書を読んでいたとおぼしき西郷によって命が助かった今井が、後にクリスチャンになるんですね。
今井は、明治五年に放免された後、八丈島で教育をしたり、一時期は横浜で密貿易の取り締まりもしていた。その後、最後の将軍だった徳川慶喜のいた静岡に、幕臣だった今井も移り住みます。そこで徳川家の没落武士たちが開墾をするわけです。このとき開墾した牧ノ原は、その後、お茶の産地として有名になりました。このお茶を売るために、今井は横浜に行きました。
彼は根っからのキリスト教嫌いでした。徳川幕府がキリシタン禁教令を出していましたからね。静岡にも教会があり、そこに行く元武士たちもいました。それに今井などは非常な憤りを覚え、宣教師殺害を試みるわけです。今井は剣が立つということで、斬り込み隊長になります。しかし、彼はそこでハッと立ち止まる。宣教師が伝える聖書というものを一度くらい読んでみようと思ったのです。もう日本語の聖書もありましたから、取り寄せて読んでみた。最初は、何とくだらない本だと思ったそうです。こんなくだらないことを信じている奴など、殺す価値もない。そんなことで剣を汚すわけにはいかないと、暗殺計画を止めてしまうのです。
その後、横浜に仕事で行ったときに、横浜海岸教会の前を通りかかり、ひやかし半分で入ってみると、礼拝が行われていた。そのメッセージが、とても心に響くものだった。牧師は、やはり元武士の稲垣信師だったのではないかと言われています。ここにも、神様の導きを感じるんですね。
今井は本当に、自分が間違っていたと悔い改め、静岡に帰って教会の門を叩きます。そこで聖書を学び、洗礼を受けたのです。
彼は、キリストを自分の心に受け入れたときから、まったく変わったそうです。腕の立つ剣客で、江戸の講武所でも教えていました。ここで、今井は片手打ちという技を考案し、これで相手を打ったとき、武具をつけていたにもかかわらず、相手の頭蓋骨を割ってしまったそうです。それ以来、彼の片手打ちは禁じ手になったそうです。それほどの武芸の達人でした。その彼から殺気が消えたのです。
クリスチャンになってからは、牧ノ原の小さな村で過ごしました。江戸時代が続いていれば「殿様」と呼ばれていた人が、肥桶を担いで農作業をして働きました。村長も務めた後、七十九年の生涯を閉じました。

日本人は聖書の真理と向き合ってきただろうか

この本には、今井信郎以外にも多くの聖書を読んだサムライが登場しています。キリスト教の禁令が解かれて以降、百五十年余が経ち、日本人は聖書とどう向き合ってきたのでしょうか。
このことを考えるとき、評論家・亀井勝一郎の含蓄あることばを思い出します。
「神あるいは仏と対決して、それを信じるか信じないか、いずれにしても、神あるいは仏に対する自己の精神的位置を決定するための、持続的な戦いが思想形成の根本である」「明治以後の西洋文明の享受において、キリスト教を信じるにせよ、否定するにせよ、それに直面して、自分の心に問いただすという態度のなかったところに、それ以降の日本の思想の脆弱さがあったのではないだろうか」(現代日本思想大系「内村鑑三」筑摩書房より)彼はキリスト者ではありませんが、結局、日本人が聖書の真理と真正面から取り組んでこなかったことが、現代の日本における大きな問題ではないかと指摘しています。これは、クリスチャン自身も問われていることです。聖書を信じていると言っているクリスチャンが、本当に、日々の生活のなかで神のみことばを生かしているのか、この百五十年の歴史を振り返るとき、それが、今、問われているように思います。
守部喜雅 氏1940年、中国・上海生まれ。慶応義塾大学卒業後、1977年にいのちのことば社に入社、クリスチャン新聞に配属。その後、クリスチャン新聞編集部長、「百万人の福音」編集長を歴任し、2004年に退職。現在は、同紙編集顧問。ジャーナリストとしてライフワークは、中国におけるキリスト教事情。著書に、『中国・愛の革命』(いのちのことば社)、『聖書―知れば知るほど』(実業之日本社)、『日本宣教の夜明け』(いのちのことば社・マナブックス)などがある